第1章:SLEEPING
〜招待状の断り方・愛美バージョン〜
いらいらいら。

沈黙が続く。どこまでも続く。いつまで続く?

いらいらいらいらいらいら……。

ぷちっ。

「あー、もうっ! みんな、どうしたのよ?!」

ホワイトボードの前の席に座る、ショートカットの少女が苛立たしげに言った。
右手に持つ扇子を左の掌に打ちつけると、小気味いい音が教室内に響く。しかし、これでは恫喝しているようなものだ。案の定、その場にいた者たちは首を竦めているが、彼女は構わなかった。

「私は質問してるんだけど。ねえ、篠田くん」
「は、はいっ!!」

彼女の隣にいた、やや幼い顔立ちの少年が文字通り飛び上がる。なぜか思いきり緊張している。

「で」

わざとらしく、彼女は言葉を区切った。

「どういうことなの」
「……分かりません。ただ……」
「ただ?」
「……あ、あの、委員長……そんなに顔近づけないで下さい……」

顔を真っ赤にしながら、篠田がしどろもどろに言う。副委員長である彼は、自然と委員長――江島愛美の追求の矢面に立たされてばかりいる。

今回は図書委員長の留任問題。
本来なら手続きを行わなければならない当の委員長が、姿をくらましてしまったのだ。
私的に留任の報を受けていた愛美がこの事実を知ったのは、今日の委員会が始まってすぐのことだ。しかし委員の何人かは、噂として知っていたらしい。

「これは完全な不手際よ。選挙管理委員長たる私が各委員長の動向を知らずにいたなんて……克巳会長に何て言ったらいいのかしら」
「あ、謝るとか……」
「謝る? 謝ったら図書委員長――和泉君が姿を現すの? 篠田君?」
「い、いえ……」
「だったら、もう少し現実的な回答をお願いね」

とげとげしい台詞が出てしまうのも、無理はなかった。
蒼明学園生徒会――中でも高等部のそれは、優れた才能を持った生徒たちが集まっている。そして、その才能の中には口外できないような特殊なものも含まれている。
愛美も、姿を消した和泉 達也もその異能力ゆえに生徒会役員になったのだ。これは現生徒会長・朱凰克巳の意図に大きくよるものだが、彼の真意は明らかではない。

「とにかく、このままだと新たな図書委員長候補を探さなきゃいけないわ。一週間後に花見大会も予定されているから、急がないと」
「……花見のために委員長を探すんで――いてっ」
「理由はどんな些細なものでも存在すればいいの」

頭をさする篠田に愛美は微笑みかける。
ともすれば、不敵とも言える笑顔――彼女は考え方の切り替えが早い。くよくよするのが性に合わないだけかもしれないが、失敗を受け入れ、ばねにできる強さを持っている。

「さあ、みんな。無責任な委員長を見つけ出して、花見の席でしっかりしぼってやりましょ♪」
「はい!」

委員たちは声をそろえて返事をし、解散した。
内心、図書委員長に同情しながら。

「……さて、と」

愛美は一息ついた後、手元の資料を眺めることにした。

和泉達也。
去年1年間付き合っているから、おおよその性格は知っている。はっきり言って、あまり好きになれない少年だった。

「でも、探さないわけにはいかないわよね」

自分を納得させるように呟きながら、手早く目を通していく。交友関係、最近の個人的な問題、クラスメートからの情報……かなりの情報がそこにはあった。
これは選挙管理委員会には範疇外の情報量だ。

「紀家君ね……どこから聞き出したのかしら」

どこか飄々とした報道委員長の顔を思い浮かべつつ、さらに読み進めようとして――その手が止まった。

紙の右上にプリントされた写真。セミロングの、愛らしい感じのする少女だ。誰からも好かれそうな雰囲気を放っている。

永沢有子。15歳。1年C組32番。料理部所属。

そして、図書委員会にも入っている。彼女と達也とのつながりはそれだけだ。

「今年の報道はレベル下がったのかしら」

人を見た目だけで判断するようなことはしないが、それでも永沢有子には邪気めいたものが感じられない。
だが、心のどこかで何かが囁いている気がした。

彼女には、何かある。

愛美は自分の勘を信じる方だ。世界には常識では考えられない出来事が溢れている。それに比べれば、第六感などありきたりのものだ。
何より、彼女は自分を信じている。

「――ま、ここは私の勘と……ついでに紀家君の今までの実績を信じてみるしかないわね」

 ぐるん。

「――あれ?」

視界が反転した。逆さまになった。天地がひっくり返った。

「……ということは。天井――元は床だけど――にいる私は……」

落下した。

「やっぱり」

いきなり天地が変わっても、ニュートンの法則は律義に守られていたようだ。愛美の身体は天井、いや、今は床になったところへ落下していく。
していく、と言うものの、天井の高さは3mほどだ。考える暇も無く床に叩き付けられる……はずだった。

「あれ?」

我ながら没個性的な――と思いつつ、彼女は身体を反転させた。そのまま天井に、いやいや、床に着地する。

「落下のスピードがなくなった……というより、浮かんだみたいだったけど」

わざとらしく大きな声を振りまきながら、その瞳は油断なく周囲を探っていた。いくらこの世に常識では計れないことがあると言っても、何の因果関係も無しに天地がひっくり返る訳がない。
この現象を起こした者が近くにいるはず――とりあえず気配はない、と思うのだが。

よく見ると天井――もちろん、本来は床――にある机や椅子は落下していなかった。それどころか、埃一つ落下してこない。

どうやらニュートンに好かれたのは、愛美だけらしい。

「まったく……これから仕事って時に」

苛立たしげに扇子を掌に打ちつけると、彼女はドアに向かって歩き出した。逆さまになってしまっているが、開けられるだろう――普通のままなら。

だが、その時だった。

議題が書かれたままのホワイトボードが、歪んだ。ある一点を中心に、渦を巻いているようだ。

いや。

「――! 違う!」

歪んでいたのはホワイトボードではなかった。

ボードと愛美の間――空間そのもの。

そして。

歪みの渦から、何かが現われようとしていた。すべての色が混じり合い、闇に近い漆黒が形作られていく。

さすがの愛美も言葉がない。

やがて、それは姿を現し、先程とは別の意味で愛美を絶句させた。

<ふにゃあああ……やれやれ。やっと出られた>
「な……ただの、猫……?」
<ありゃ、人がいたのか。困ったにゃあ>

大袈裟な登場をした黒猫は宙に浮いたまま、照れた風に顔を洗った。金色の双眸が悪戯めいた光を放ちながら、愛美を捉えている。

<……そんなに驚かなくても、いいんじゃないかにゃ?>
「空間を捻じ曲げて出てきたのがただの猫じゃ、拍子抜けもするわよ」

彼女にしては少々負け惜しみに近い台詞である。しかし、黒猫は満足そうに鼻頭をなめて、笑った。

<面白いお姉ちゃんだにゃ。この状況に適応して、おまけに皮肉まで言えるなんて>
「余計なお世話よ。それより、この妙な現象はあなたの仕業なわけ?」
<ち、違うにゃあ>
「けど、少なからず関係があるんでしょ?! 白状なさい!」

愛美は黒猫の首根っこを捕まえ、軽く睨む。

<そ、そーゆー持ち方はよくないんにゃあ!>
「普通の猫なら、普通に抱いてあげるわ。で、あなたは何者なの?」
<分かった、分かったから離すにゃああああ!!>

何とか束縛から逃れた黒猫は、愛美とは少し距離を置いて再び宙に浮く。そして彼女の剣幕に恐れをなしたのか、渋々喋り出した。

<……ボクは『チェシャ猫』。『ありす』を探しているんだにゃ>
「ありすぅ? 童話の世界から来たって言うの?」
<違う違う。ボクらは封じられていたんだにゃ……つい最近まで>

黒猫の口調に苦いものが含まれている事に気づき、愛美は眉をひそめた。

「じゃあ……封印が解けたから、出てきたのね」
<……キミはこういったことを信じるのかにゃ?>
「目の前で起こった出来事なんだから、夢や幻になんてできないでしょ」

愛美のさも当然といった言葉に、『チェシャ猫』は少し驚いた様子だった。それでも彼女の笑みを見て、愉快そうにしっぽをくねらせた。

<不思議だにゃ……同じ人間なのに、こうも違うにゃんて>
「どういうこと?」
<『ありす』は――>

『チェシャ猫』が口を開いた瞬間だった。

まるでその時を狙っていたかのように、突風が吹き荒れた。窓もドアも閉ざされているはずの、教室で。

「何なの!?」
<……あいつ……!>

壁に叩きつけられた『チェシャ猫』が、呻き声と共に呟く。

<やめるにゃ! ここには関係のない人間が――!>
<ニンゲンナドシルモノカ>

新たに加わった者の声は、暗い何かに満ちていた。少なくとも、人間に何の想いも抱いていないのは間違いない。

そのことを悟り、愛美の背筋に冷たいものが走る。

「……やばそうね」
<早く逃げるにゃ! あいつはボクがくい止める!>

「馬鹿言わないでよ。逃げるなんて、私の性に合わないわ」

ショートカットの髪を風に乱されながら、愛美はどこまでも不敵だった。

「こういう礼儀を知らない招待状を受け取るつもりはないけど、だからって送り主に返事をしないわけにもいかないでしょ」

すなわち。

<……仕返ししないと気が済まないって事かにゃ?>
「まあ、ごく簡潔に言うとそういう事ね」

微笑む愛美を見て、『チェシャ猫』が身体を震わせた。

<……とんでもない人間と出会っちゃったにゃ>
「何か言った?」

しかし、それに対する答えは返せなかった。
再び、窓の近くの空間が歪み始めたから。

「……もう、これって生徒会の仕事なのかしら。ちょっと、面倒ね」

これが。
ちょっとどころではない騒動の始まりだということを。

江島愛美は。

――しっかりと確信していた。
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