プロローグ
和泉達也は走っていた。
暗い、暗い夜の校舎の中を。ただ一人で。
誰もいない。当たり前だ。校舎に入る前、真夜中の零時を腕時計で確認した。
だが……あれから何時間経ったのだろう? 達也の時間感覚はとうに失われていた。念のために、もう一度だけ時計盤に目を近づけてみる。
――頼む……頼むよ……。
だが、彼の願いは叶えられなかった。時計の短針は右回りに、長針は左回りに回転していた。
ありえるはずのない、異様なスピードで。
「 ……やっぱり駄目なのか……?」
絶望に満ちた声でうめく達也の耳に、かすかな笑い声が聞こえた。
その瞬間、思い出した。
自分が『奴』に追われていたことに。
「う……うあああ……」
<……ニゲラレナイゼ>
間違いない。『奴』だ。逃げようとした達也だが、足をもつれさせ、無様に転ぶ。立ち上がろうとしても身体が動かない。
「あ、ああ、こ、来ないでくれ……来ないでくれよおおおお!!!」
絶叫する。しかし、そんな彼を嘲笑うように『奴』は闇から姿を現した。
<クク……オニゴッコハ、モウオワリカイ?>
「悪かった……悪かったよ。2度とあんな事はしない。だから……」
<ダカラ、イノチダケハタスケロ、カ?>
「知らなかったんだ。こ、こんな事になるなんて……」
<フザケルナ!>
『奴』が怒号を発し、達也を殴りつけた。
<オマエタチノセイデ、オレハ……!>
今までの余裕はどこにもなく、『奴』は怒りと――狂おしいほどの悲しみに打ち震えている。だが、倒れている達也に追い打ちをかけようとはしなかった。もはや彼への興味など失せていたのだ。
ただ逃げるから追い回していただけに過ぎない。
<モウ、イイ。オレハ……『ありす』ヲサガス>
そう言い残し、『それ』は再び闇へと姿を消した。恐る恐る顔を上げた達也は、脅威があっけなく去ったことに呆然とするしかなかった。
けれど、『奴』は確かに消えた。助かったのだ。
「……や、やった……これで、帰れる……」
ふらふらと立ち上がった達也は安堵の笑みを浮かべた。
「でも、急がないと……。バレたら、事だからな」
言葉ではそういったものの、彼には切り抜ける自信があった。『奴』から逃れられたことも、その自信を増大させた。
「大丈夫さ。黙ってれば分かるわけがない……」
だが。
達也の慢心は、すぐに凍りつき――そして砕け散った。
時計の針はまだ、信じられない速度を保ったまま回転しているのだ。
「な、なんで……『奴』がいなくなったんだ! なんで元に戻れないんだ?!」
<バカナヤツメ>
不意に『奴』の声が響いた。
<オマエヲユルスト、イッタオボエハ、ナイ>
「た、頼む……そうだ! 『ありす』とかいうのを俺も探す。だから――」
<――エイエンニ、サマヨウガイイ>
そして……。
和泉達也は、迷宮に閉じ込められた。
『ありす』が現れる、その時まで。
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