§エピローグ
「――麗子、本当に良かったのか?」
瀬川は諏訪市名産のカリンワインに口をつけた。この程度なら、すぐには酔わない。
「何のことかしら?」
向かい側のソファーに座った麗子が、とぼけた風に――おそらく本人は本気なのだろうが――尋ね返した。
「空似の本体……スケッチブックをあのままにしておくって事は……」
「大丈夫よ」
麗子は彼の言葉を押し止めた。
「ちゃんと向かい合って答えを出したんだもの……それに今度こそ空似も詩織ちゃんの本当の想いを受け取れるはず」
「なるほど。あの子の元にいれば、復活する時もそう遠くじゃないしな」
「ええ」
上機嫌の麗子を見て、瀬川は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「そんなに嬉しかったのか?風斗に名前を呼ばれて」
「……分かっていたの?」
「付き合いだけは長いからな――しかし、あいつが名前で呼んだのって何年ぶりだ?」
その問いに、麗子は少しだけ淋しそうな表情を見せた。
「幸穂が亡くなって以来よ……それまでは麗子おばちゃんだったの。だけど……」
「あいつなりに大人になろうとしていたのさ……責任感だけは強いからな」
おそらくは無意識のものだったのかもしれない。他人に心配をかけまいとする、風斗らしい行動だった。
そしてそのことに気づきつつ、あえて触れなかった麗子も。
「まあ、今度の件で少しは整理がついたんじゃないのか?」
「そうね……そうだと、いいわね」
しばらくの間、静寂が続いた。もっとも、心地よい静けさといえた。
それを破ったのは、麗子だった。
「……ねえ、瀬川くん。一つ質問があるんだけど」
「ん……?」
瀬川は眠っていたらしい。だが麗子は聞いてみることにした。
「瀬川くん、私が自分のことを優しすぎるかって尋ねた時、口を濁していたわよね。……あれ、なんて言おうとしていたの?」
「ああ……確かにお前は優しすぎるよ……ただ……」
「ただ?」
夢うつつの状態で、瀬川は答えていた。
「ただ、俺は……その優しさに助けられたのかもな……」
そのまま、瀬川は寝息を立て始めてしまう。
「あらあら、困ったわね……」
麗子の顔に優しい微笑みが浮かんだ。
「ほら、風斗!遅刻しちゃうわよ!」
「……いいよな……後ろに乗ってるだけの人は……」
「何か言った?」
「……別に!」
荒い息をつきながら、風斗は自転車のペダルを必死に漕いでいた。
結局、昨日は学校の授業に復帰することはできなかった。担任から間違いなく説教を食らうだろう。
おまけに、由美からは「あたし、風斗に殺されそうになったのよ!」などと声高に責められ、しばらくこき使われそうである。
「帰りに大社堂へ行って、事実を確認しないと」などと考えつつ、ようやく坂道を上り終えた。
「さっすが風斗!男の子♪」
「まったく……」
「――おはよう、壬生くん」
「あ……」
振り返った風斗は、挨拶をしてきた少女が誰なのか一瞬分からなかった。
しかし、その声は――。
「葉沢さん……だよね?」
「うん。少し変えてみたの……似合わないかな?」
詩織は三つ編みをほどき、しかも少し短くしたようだった。何より眼鏡をかけていない。
彼女は恥ずかしそうに、
「やっぱり……おかしい?」
「びっくりしたけど……すごく似合ってると思う。な、由美」
目を丸くしている風斗に、由美は面白くない様子だ。
そんなことも知らず、風斗がしげしげと見つめている。
「女の子は急に綺麗になるって、父さんが言ってたけど……本当だったんだ」
「あ……」
詩織はさらに顔を赤らめた。風斗との距離が10cmもない。
これには由美も黙っていられなかった。
「か、風斗!接近しすぎ!」
「あ――」
気づいた途端、彼も赤面した。
「ご、ごごごご、ごめんっ!」
「わ、私は……きゃっ!」
動揺した詩織は手にしていた赤いスケッチブックを取り落とした。その拍子にページがめくれ、あるところで止まる。
そこには。
一人の少年と、彼のもう一つの姿――天狗が描かれていた。
新たな想いが、そこに……。
© 1997 Member of Taisyado.