「……風斗!風斗!」

聞き覚えのある声に風斗はうっすらと目を開けた。
予想通りの顔がそこにあった。

「由美……授業サボったな……」

一瞬、幼なじみはきょとんとした顔になり、すぐに笑った。

「馬鹿……風斗だって、そうでしょ」
「そっか……由美」
「なに?」
「……ありがとう。やっぱり目覚まし時計より、由美の声の方が効き目あるよ」
「風斗……」

彼女の頬に朱が走る。が、後頭部を叩かれてすぐに消えた。

「なっ……瀬川さん!」
「――まったく……苦労したってのに。俺は目覚まし時計扱いか」

人間の姿に戻った瀬川が、不機嫌そうに口元を歪めている。着ている背広は術で化けたときに創ったものだろう。
彼は人に化けるのが得意な妖怪なのだ。

「だからって、叩かなくてもいいでしょ?しかも、あたしを!」
「それに」

食ってかかる由美の頭を、くるりと別の方向へ向ける。

「まだ、終わってないんだ」
「――葉沢さん……」

風斗の中で何かが痛みを感じた。
彼女は耐えられるのだろうか?自分は10年前に母を失った。けれど彼女の心の傷は、まだ新しい。
新しすぎて、血が流れ続けているのに。

「瀬川さん」
「俺はもう手伝わないぞ」

彼は肩をすくめてみせた。おどけた仕草だったが、目は真剣だった。

「助けてみせろ……あの子を」
「……はい」

力強く、風斗は頷いた。



「風斗くんも無事、元に戻ったようね……良かったわ」

不安の一つが解消され、麗子もさすがに安堵のため息を隠せなかった。
しかし、気を緩めてはいない。

<なぜ……>

風斗への支配が途絶えたことで力を失ったらしく、空似は地面に手をついていた。

<なぜ、みんな離れていくの?私は愛し続けているのに……>

「空似……」

生まれたばかりの妖怪である空似は、まだ知らないのだ。人の心は時に恐ろしい速さで成長することを。

<なぜ?なぜなの?>

空似は戸惑っていた。虚ろな視線をさまよわせ――詩織を見つめた。

<そうよ。この子がいるわ>

「もうよしなさい、空似!」

麗子の制止の声を振り切り、空似は詩織の元へ逃げようとした。

その時。
風が、空似と詩織の間の大地をえぐった。

「やめろ!」

迷いのない言葉が、風に響く。
壬生風斗が、詩織の前に降り立った。

「葉沢さんには指一本触れさせない」
「壬生くん……」

はっとして、振り返る。麗子の術によって彼女は身動きできない。
それでも、言葉を紡ぐことはできる。

「壬生くん……壬生くんよね……?」
「麗子さん、術を解いてください!」

名を呼ばれた麗子は驚いた様子で、わずかに反応が遅れる。しかしすぐに荒縄は地面に消えていく。

「大丈夫?」
「うん……でも、壬生くん。その翼……」

風斗は少しうろたえた。

「詳しいことは後で説明するけど……葉沢さん、本当に大丈夫?」

彼女の瞳はもう虚ろではなかった。意志の光がそこに宿っている。

「空似の力が弱まったのね……」
「詩織!」

呟いた麗子の脇を克彦が通り過ぎていく。ようやく正気に戻ったらしい。

「お父さん……。」
「よかった……無事で……」

娘を強く抱き締め、克彦は涙を流していた。

「ねえ、お父さん……お母さんはどこ?」

その一言が、全員を硬直させた。
唯一動いたのは、空似。
満面の笑みを浮かべ、彼女はゆらりと立ち上がった。

<ふふふ……ふふふ……>

「詩織ちゃんから離れて!」

麗子が叫び、風斗は克彦に体当たりした。赤い霧が詩織から溢れ、美津子の姿をした空似と溶け合った。美津子も赤い霧に変わる。
そして、霧は詩織の背後に集まり、再び美津子の姿を形作った。

「本体を分けていたのね……」

<そう。本当の私はいつも詩織と一緒なのよ……この子がそう望むから>

空似は一転して勝ち誇った様子で、詩織を抱き寄せた。

<この子は渡さない……私を愛してくれるのは、詩織だけ……>

「詩織……帰ろう!それは母さんじゃないんだ」

克彦の叫びに、詩織はその眼差しを向けた。
意志の光が宿る、赤い瞳。

「お父さん。私……淋しいの。お母さんがいなくなるなんて、絶対にいや……死んでほしくなかったの!」

絶叫が耳を打った。彼女は泣いていた。いや、泣きながら笑っていた。
幸せそうな笑顔で。

「幻だっていい!嘘でもいいの!お母さんがいてくれれば、それで……」
「そんなの、間違ってる!」

風斗が立ち上がって叫んだ。

「俺も……母さんが亡くなって淋しかった。けど、由美や麗子さんが支えてくれた。大切な人が全部いなくなったわけじゃないんだ」
「風斗くん……」
「葉沢さんにはまだお父さんがいる……それに、役に立たないかもしれないけど、俺や由美だって」

役に立たないってどういう意味よ、と叫びかけた由美だが、瀬川に素早く口を塞がれる。
もう少し我慢しろ――瀬川は目でそう言っていた。

「俺みたいに我慢しろなんて言わない。泣くななんて言えるわけがない。でも、お別れは言わなくちゃいけないんだ!」

<やめて!この子は、この子は!>

空似がさらに強く詩織を抱き締める。彼女にはもう、詩織しかいない。

<お願い!私を愛して!>

「私……わたし……」
「詩織……帰ったら、お線香をあげよう。お母さんに謝らないとな」

克彦は静かに笑みをみせる。そして、ゆっくりと手を差し伸べた。
詩織にはまだ、彼がいる。

「お父さん……」

<詩織……私を、愛してくれないの?>

耳元で囁く空似を詩織はじっと見つめた。
母と同じ顔の人――けれど、それは本当の母親ではない。
そう、自分の心の鏡にすぎない。

ただの他人の空似なのだ。
だから。

だから……

言えなかった、怖くて言えなかった言葉を。
お別れを、言おう。

今度こそ。

「さようなら、お母さん」

<ああああああぁぁぁぁぁ!!>

血のように赤い霧――それが空似の真の姿だった。決まった性別も姿もない、想いそのものが空似なのだ。

しかし、それ自体には実体がある。
注がれた想いは、幻ではないのだから。

「たとえ偽物でも、母さんにお別れが言えて……嬉しかった。ありがとう」

風斗が翼をはためかせ、天を駆ける。
その途中で詩織と目が合い、そっと頷き返される。
その様子を横目にし、麗子が微笑んだ。

空似へ向ける、初めての優しい笑顔。想いから生まれた仲間を倒すのは、つらい。
けれど、それは永遠の別れではない。

「今度は、人と支え合うような存在になれるといいわね……そう願っているわ」

麗子の髪と瞳が濃い緑色に染まり、身体が樹そのものでできた姿に変わる。
妖怪・御柱。彼女の放つ刃の鋭さを秘めた木の葉が、霧を引き裂く。

そして。
風斗の放つ颶風が、すべてを消し去った。
後に残されたものは、赤いスケッチブックだけだった。
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