「――逃がさないわよ」

麗子が手をかざすと、地面から伸びた荒縄が詩織を捕らえた。
御柱を引くために使われる縄だ。生半可な力で切れはしない。

「姿を現したらどうなの……空似」

彼女の言葉に応えたのか、詩織の持つ赤いスケッチブックがその手を離れ、空中で形を変えた。

「ああ、あ……」

克彦が驚愕の呻き声を洩らす。信じられない光景だった。
紙が生き物のように歪み、ねじれた。詩織の描いた絵から顔が抜け出て、続いて肩、胸、腰、そして両足が現れる。同時に髪は黒く、唇は赤く染まっていく。

ほんの一瞬で、詩織によく似た40代の女性がその場に姿を現した。

「美津子……」

正体を目の前で見せつけられてなお、克彦はそう呟いていた。似ているなどというものではない。完全に美津子と同じだ。

<許さないわ……>

虚ろだが怒りに燃える瞳が、まっすぐに麗子を射る。しかし動じた様子もなく、彼女は相対していた。
いざ戦いとなれば、彼女は冷酷にもなれる。

<詩織を離して……その子は私の愛しい娘よ。あなたなんかには渡さない>

「違うわ。あなたは葉沢美津子さんじゃない……詩織ちゃんの淋しさの結晶よ」

<あの子は私を愛してるのよ?>

「違うわ」

麗子が冷たく繰り返した。

「どんなに似ていても、所詮あなたは本物ではないの。亡くなった人に似ているだけの、ただの他人の空似なのよ」

<私は……私は、葉沢美津子よ!>

「詩織ちゃん」

ぴくりと、未だに虚ろな瞳の詩織が身を強ばらせた。

「空似は……その人は美津子さんではないのよ。いえ、あなたも気づいているのね?」
「やめて……!」

少女の顔に怯えが走る。

「空似の言葉は、あなた自身の言葉なのよ。あなたの思いを囁いてるだけに過ぎないの」

<やめて!>

美津子――空似の瞳が赤く輝いた。体力を奪い去る強力な妖術だ。
だが、麗子は眉をわずかに動かしただけで何の反応も示さない。

「あなたの力で私を傷つけることは、できないわ――やめなさい」

そう言いながら、彼女は克彦の方へ目を向けた。彼は現実に対応できないらしく、遠くに視線を飛ばしている。

「あらあら、困ったわね……」

時間を稼ぐしかない――麗子はそう判断し、再び空似と向かい合った。



ひゅんっ!

風を切り裂いて、針のように鋭く変化したかわうその獣毛が飛んだ。
それをかろうじて避けた風斗だが、反撃すらできずに片膝をついた。

「今のお前じゃ、そんなもんだ。手を抜いてる俺でも勝てる。」

瀬川が冷たい目で見下ろした。

「どうした?幸穂が何か囁いてくれないと、何もできないのか!」
「やめてよ、瀬川さん!」

風斗の胸ぐらをつかみあげた彼の腕にしがみつくようにして、由美が止める。

「由美ちゃん……」
「そんなの、駄目だよ。そんなことしたって……」

彼女の声は少し潤んでいた。
思わずため息をついた瀬川は、腕の力を緩めた、崩れ落ちる風斗を由美が支える。

「風斗、目を覚ましてよ」
「……由美、俺は……母さんを守りたいんだ……ずっと」

ぱんっ!

小気味よい音が響き、風斗は茫然としたまま頬を抑えた。

「風斗の大馬鹿!勝手に悩んで、勝手に自分の殻に閉じこもって……そんなの、ずるいよ!」

今にも泣きそうな声だった。しかし、涙があふれ出す前に素早く拭う。

「風斗は我慢してたじゃない。それは誉められることかどうかは、あたしにも分からない。でも……」

風斗の身体を強く揺さぶる。

「でも、今までの風斗は前向きだった!それなのに、我慢できなくなったら逃げちゃうわけ?」
「由美……」

泣いている……。
あの、由美が……。
俺は……俺は我慢してればいいと思っていた。そうすれば、誰にも心配かけないですむから……。
そうだ、俺が自分で決めたことなんだ。

「今の風斗……嫌だよ。頼りなさそうでも、運が悪くても、いつもの風斗がいい……」
「由美……俺は……っ!」

瞬間、視界が暗転した。

<風斗……どうしたの?>

赤い霧が彼を取り巻いていた。決して逃がさないように、幾重にも。

――思い出したよ……母さん。

<私との思い出?>

――それだけじゃない。あの時、言えなかった言葉も……。

ざわり。

霧が一瞬、風斗から身を引いた。その反応に、彼は淋しげな笑みを浮かべる。

――今、分かったんだ。俺は母さんに会いたかった……でも、それだけじゃない。

<風斗?何をするつもりなの?>

――俺は母さんにお別れの言葉を言ってなかった……ずっと泣いていたから……。

目の前にいるのは、幸穂ではなかった。
人間ですらない、赤い霧。
少年の淋しさを映し出していた、心の鏡。

<やめて……もう二度と会えなくなるわ。それでもいいの?私はあなたをずっと愛してあげるのに>

――母さんは、もういない。

<いや!言わないで!>

――俺……みんなのせいにしてた。泣かないって決めたのは俺だったのに、いつの間にかみんなが俺を泣かせないように無理強いさせてるって思ってた。

<私は、あなたを――!>

風斗は微笑んだ。

――母さん。心配かけて、ごめん。そして……さようなら。

<――!>

空似の声なき絶叫が、響き渡った。
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