§微笑む霧の中で
「ふぅ……」

風斗は今日何度目かのため息をついた。空はどんよりとした灰色の雲に覆われており、ますます気分が滅入りそうな雰囲気だった。
昼休み。幸いにも由美は放送当番なので、ここ――校舎の屋上で昼食を食べた。

一人で考えたい気分だったのだが、色々な事が脳裏を駆け巡り、何を考えればいいのか分からなくなってしまっていた。

「……それでは、次のお手紙。ペンネーム“コルフォ命”さんから。『由美さんには恋人がいると聞きました。本当ですか?』――もう、やだぁ〜♪ そんなこと、女の子の口から言わせるつもりぃ?……」

遠くから聞こえる校内放送を、風斗はあえて無視することに決めた。

「まったく……頼むから妙な騒動をまた起こさないでくれよ……」
「――壬生くん」
「うあっ!?」

聞き覚えのある声に、風斗は振り返る。
葉沢詩織が、いつものように赤いスケッチブックを携えて、そこにいた。

「は、葉沢さん……どうしたの? あ、邪魔なら出て行くけど」

あたふたしている彼に微笑みを向けながら、詩織はかぶりを振った。
その笑みの不自然さを見抜く余裕は、風斗にはなかった。

「壬生くんに聞きたいことがあるの」
「俺に、聞きたいこと?」

風斗の方へ歩み寄る彼女の動きは、ひどくぎこちなくゆっくりとしていた。

「葉沢さん……」
「壬生くんは、淋しい?」
「え……?」

自分の悩みを見透かすような問いに、風斗は動揺した。
それを見た詩織が、かすかに笑う。

「お母さんのこと、忘れられない?」
「それは……」

溢れ出そうになる想いを呑み込もうとする。
今までどおりに。
けれど、そこに詩織がいた。自分と同じ想いを持った彼女が。

「……忘れられない。俺は母さんを守れなかった。あの時の俺は、何の力もない子供だったから……」

風斗の表情から頑ななものが消えていた。ずっと隠し続けていた、素顔。

「今なら守れるんだ……守りたいんだ……もう、淋しいのは嫌だから」
「守れるわ」

詩織の甘い囁きに、風斗ははっと顔を上げた。彼女はいつの間にか目の前にいた。

「あなたが望めば……」
 <私を望めば……>

「母さん……?」

詩織の声と重なり合って聞こえたのは、確かに母の声だった。

「お母さんはあなたの前に現れるわ」
 <私はあなたの前に現れるわ>

赤い霧が風斗の心に広がっていく。そして、包み込んでいく。
懐かしく、暖かく、優しい囁きのように。

<私はあなたの心の鏡>
<私はあなたの愛の輝き>
<その輝きが私の愛>
<さあ、私を愛して……>

「やめてくれっ!」

風斗は赤い霧を振り払い、詩織から素早く離れた。

「……どうして逃げるの?淋しいのに」
「葉沢さんじゃないな、君は」
「私は詩織よ」

その顔に貼り付けられた笑みは、いつもの彼女なら決してしない笑い方だった。
風斗が身構えるのを見て、さらに笑みを大きくする。

<知っているわよ>
<あなたも大切な人を失って悲しいのね。淋しいのね……>

――こいつが、こいつが葉沢さんたちの悲しみを癒やしていたのか?

「そう。だから、私は淋しくなくなったの」

思考を読みとったのか、詩織はそう言った。驚きの表情を浮かべる風斗に、一歩一歩近づいていく。

その瞳は、赤く輝いていた。

「葉沢さんを操っているんだな」
「違うわ」

彼女は即座に否定する。幸せそうな、それでいて虚ろな微笑みを天に向けた。

「私はお母さんに死んでほしくなかった。私が、そう望んだの」

<私は葉沢美津子>
<この子が望んだから、私はいるの>
<あなたも望めば、私はいるわ>
<私は……壬生幸穂>

頭の中で響く声に、風斗は抵抗しようとした。しかし、赤い霧は彼の前から消えようとしない。

――どうすればいいんだ……?

<私を愛して>
<私は消えないわ……あなたが望んでいるのだから>
<……もう、遅いのよ>

「さあ……、壬生くん」
「駄目だ、葉沢さん……そいつは……」

必死で絞り出した声は弱々しく、詩織の心には届かない。

「……そいつは、君を利用して……」
「壬生くんも不安なのよね。でも……」

フェンスに寄りかかって喘いでいる風斗の胸に、詩織の頬が寄せられる。

「でも、大丈夫よ……だって、壬生くんはお母さんのことが好きなんでしょう?」

<淋しかったんでしょう?>

「……母さん……」

そう呟いた瞬間、風斗の目の前には思い出の中の母がいた。

<風斗……>

「淋しかった。淋しかったんだ……でも、みんなには心配かけたくなかった。ずっと我慢してたんだ……」

幸穂は優しい微笑みを浮かべた。

<つらい思いをさせたわね……だけどもう大丈夫。私はここにいるから>

「本当に?」

<本当よ……風斗が私を愛してくれるなら、私もずっと愛し続けるわ>

「大好きだよ、母さん……」

すでに風斗の瞳には、何も映ってはいない。
赤い霧は、静かに笑い声をあげた。

<さあ、もっと私を愛して……>
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