「――おい、しっかりしろ」
意識を取り戻さない克彦を、瀬川は何度も揺すぶった。軽く殴ってみようかとも考えたが、麗子の前ではためらわれる。
「……駄目か……」
「大丈夫よ」
瀬川の反対側にしゃがみ込んだ麗子が、克彦の脈を取りつつ言った。
「もうこの人から妖怪の気配は感じないわ」
「お前がそう言うなら間違いないか」
そう答えながら、瀬川は警戒心を解いてはいなかった。
人間と妖怪とでは身体から発するオーラ――生命エネルギーの輝き――が微妙に異なる。そのためオーラを「視る」ことができれば、目の前の者が妖怪か人間か看破できるのだ。
麗子の場合はさらにその力が強く、オーラの流れから相手の感情や健康状態まで見抜くことが可能だ。
もちろん見抜く術があるなら、隠し通す術も存在するのだが。
「――う……」
二人の話し声によるものか、克彦がわずかに身じろぎした。すぐさま麗子が彼に呼びかける。
「克彦さん、しっかりして。克彦さん」
「――わ、私は……」
半ば夢うつつの状態ではあったが、克彦の顔には生気が戻りつつあった。瀬川はそれを見て取り、安堵のため息をついた。
「どうやら一件落着らしいな」
「そのようね」
麗子も普段通りの笑みを浮かべる。
だが。
「――詩織!詩織が!」
突然、克彦が瀬川の胸ぐらをつかんだ。あまりの勢いに、さすがの瀬川もたじろいだ。
「おいおい、どうしたんだよ」
「詩織に、詩織に美津子……いや、美津子の声をした何かが!」
「ちょっと待て!」
何とか克彦の手を引き剥がし、瀬川は再び硬い表情に戻った麗子と顔を見合わせる。
「最悪のケースってやつか……」
「克彦さん、どういうことなんですか?」
「あれは……あれは詩織に囁いてるんだ……最初から詩織に……!」
<――あなたたち、許さない!>
憎悪に燃える女の声が響き渡った。
<――よくも、私の大切な人を!>
「大切な餌、の間違いだろ?」
辛辣な皮肉を呟きつつ、瀬川は油断なく周囲に目を向けた。姿は見えないが、女の放つ殺意がはっきりと感じられた。
その時、麗子は視界の端でちらつく赤い光に気づいた。怒りと憎悪、そして狂おしいほどの愛情に彩られた輝き。
克彦の手から? ――いや、あれは……。
<許さない――!>
「瀬川くん、指輪よ!」
刹那、麗子に急激な脱力感が襲いかかった。
「く……!」
彼女は意識を集中してその力を打ち破った。が、予想以上の手強さに驚きを隠せなかった。確かに並の人間では太刀打ちもできずに昏睡状態になってしまうだろう。
しかし麗子は並どころか、人間ですらないのだ。
「麗子!」
「大丈夫! 克彦さん、指輪を捨てて!」
「は、はいっ!」
反射的にそう答えたものの、指輪に触れたところで彼の動きが止まる。
――捨てていいのか?捨てれば、もう二度と会えない。たとえ偽物でも、それは美津子なのに……あの美津子なのに。
指輪が彼の心を見透かすようにぬめりとした赤い光を放つ。
「駄目よ、克彦さん!」
「あ、うああ……」
<あなた……私を捨てるの?>
<私を愛していないの?>
<私は葉沢美津子よ>
<姿も心も>
<あなたの愛する、葉沢美津子よ>
克彦の動きが完全に止まる。
「この……手間を掛けさせるなよっ!」
だが、近づこうとする瀬川を指輪の赤い光が襲う。
「耐え続けるのは、無理か」
「瀬川くん、下がって。克彦さんなら、大丈夫よ」
言いながら、麗子も不安を隠せない。瀬川は軽く舌打ちするが、やむなく退いた。
その間にも指輪はさらに囁きかける。
<私は葉沢美津子よ>
<姿も心も>
<あなたの愛する、葉沢美津子よ>
――姿も心も同じ……だから、彼女は美津子なのか? それだけで美津子なのか? 私の愛した美津子は……死んでしまったのに。
<死なないわ。あなたが私に愛を注いでくれるかぎり……>
「違う!」
克彦は叫んだ。
「美津子は……美津子は死んでしまったんだ!だから、だからもう、すべてが同じであっても、それは違うんだ!」
<違わない!私は――!>
「無駄よ」
彼女の叫びを遮ったのは、麗子。その声は冷たく、悲しみに溢れている。
「その人は認めたの。あなたが幻だと」
<いや!>
「幻はいつか消える……夢はやがて覚める……それが現実さ」
唄うように、瀬川が言葉を紡ぐ。
<いやよ!――あ、あなた……!>
克彦は外した指輪を掌の上で転がした。血のような輝きは弱々しい。
「美津子は死んだ……だから、二度と逢えない……でも」
――忘れることはない。きっと。
心の中でそう呟くと、指輪をその場に投げ捨てた。
「美津子……さようなら」
赤い輝きは、もはやなかった。
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