克彦はまだ10mも歩いておらず、瀬川はすぐに追いついた。再び彼の肩に手をかけ、強引に振り向かせる。

「まだ話は終わってないぜ」

無表情だった克彦に苛立ちが表れた。

「どいてくれ……私は行くんだ……美津子と一緒に……思い出の場所へ」
「夢を見るのもいい加減にしろよ」

瀬川の声に怒りが混じる。

「葉沢美津子は死んだ。三上市議の車に轢かれたんだ。目を覚ませ!」
「違う……!」
「――いいえ、本当よ」

いつの間にか、麗子の姿がそこにあった。肩の痛みを隠すように、右手で押さえている。

「事実を認めるのよ、克彦さん。あなたが過去に縛られていることで、詩織ちゃんもそれに巻き込まれているのよ」
「し、おり……?」

困惑。克彦の瞳に弱々しいが、意志の光が確かに灯る。

今だ――瀬川は彼の両肩に手をかけ、強く揺さぶった。妖怪の力に操られている者を解き放つには、そのもの自身の意志を呼び覚ますしかない。二人に術破りの能力があれば、話は別なのだが。

「死んだ人間は帰ってこない。あんたの心に囁いてる奴は偽物だ。あんたが生み出したものなんだ!」
「亡くなった奥さんのことを忘れろとは言わないわ……でも、生きている詩織ちゃんのことも大事にしてあげて」

二人の言葉に克彦は頭を押さえ、苦しみだした。呼吸が乱れ、声にならない呻き声が漏れ出る。

――美津子……死んだ? 詩織……?

悲しそうな目をした娘の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、赤い霧が全てを覆い隠した。そして、霧は克彦さえも蝕んでいく。

「う……ああ、あ……」

がくりと膝をついた彼を、瀬川たちは見守るしかなかった。これ以上は彼らにも手助けできない。
すべてを、克彦の意志に委ねるだけだ。

だが、それでも麗子は励まし続けた。おそらくは聞こえていないであろう、言葉で。

「頑張って……詩織ちゃんのために。何より、あなた自身のために……」



風が吹いた。
カーテンが波のように揺れる。

――ここは……どこだ……?

気がつくと、克彦は窓際に佇んでいた。周囲に目を向けると、そこが女の子の部屋だと一目で分かった。小さな書棚にはピンク色の背表紙の小説や、ぬいぐるみなどが置いてあるからだ。
壁に掛けられた油絵を見て、彼は自分がどこにいるのか気づいた。

――詩織の部屋だ……。

以前、顔を覗かせただけで嫌がられてしまい、それから入ったことはないが。

――あの子も大人になっているのか。

ふと一抹の淋しさを感じた。けれど、それは当然のことだ。誰もが子供から大人へと成長して行かねばならない……。
すると部屋のドアが開き、制服姿の詩織が入ってきた。

娘の元へ近づこうとしたが、足は一歩も動かない。詩織も、克彦の存在に気づいていなかった。

――見えていないのか……。

彼女は鞄を机に置き、脇に挟んでいた赤いスケッチブックを持ってベットに腰を下ろした。そして、それを開いて自分の描いた絵を見ている。克彦の場所からは、何が描かれているのか分からない。
しかし、彼女の瞳に浮かぶ涙がすべてを悟らせた。詩織が自分の膝にスケッチブックを開いたまま置いた時、それは確信に変わる。

――美津子……。

スケッチブックの中の彼女も美しかった。
優しげな顔立ちも、眼差しも、微笑みも。
何もかもが美津子と同じだった。

「お母さん……」

詩織はそっと涙を流した。涙が一粒、美津子の頬に落ちる。

「嘘でしょ……信じたくないの。お母さんがもういないなんて……」

――美津子は……いない……死んだ?

「お母さん……嘘よね?嘘だって言って。お願い……いなくならないで……」

泣きじゃくる詩織の姿が、誰かと重なって見えた。

――私だ……私も泣いたんだ。

赤い霧の中に隠されていた記憶が少しずつ甦る。失っていた何かが自分を呼んでいる。

――そうだ。美津子はもういない。なのに、私は……なぜ、あんなに……。

<ふふ……>

笑い声が聞こえた。詩織も驚いて顔を上げ、辺りを見回している。

<淋しいのね……>
<あなたは、愛しているのね>
<とても悲しんでいるわね>

その声は間違いなく美津子のものだった。だが、彼女の姿はどこにも見えない。当たり前だ――いるはずがないのだ。

――だとしたら、これは……。

「お母さん?お母さんなの?」

<そうよ>
<私はあなたの心の鏡>
<私はあなたの愛の輝き>

――!この言葉は……!

今までずっと心の中で聞いていた言葉。赤い霧が紡いでいた、あの言葉だ。

――詩織!詩織!聞くんじゃない!

本能的な恐怖を覚え、克彦は叫んだ。だが、彼の姿は詩織には見えず、声も届かない。

過去の光景なのだから。

<ねえ、詩織……>
<あなたは愛してくれるだけでいい>
<葉沢美津子を>
<だから、私は葉沢美津子よ>

「お母さん……」

詩織の瞳には何も映ってはいなかった。
赤い霧の他には、何も。
彼女はいとおしそうにスケッチブックを撫で、甘えるように頬を寄せる。

「お父さんも喜ぶわ……きっと」

<そう……その人も同じなのね>
<淋しいのね>

克彦は恐怖に身体を震わせていた。
どこか懐かしく、暖かく、優しい。
そんな美津子ではない「美津子」の囁きが、彼には恐ろしかった。
そして、次の瞬間、赤い霧が消え去った。
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