7. 偽りの魂を
葉沢克彦は至福の波に漂っていた。
亡くなった妻が帰ってきたのだ。気落ちしていた分、喜びも大きかった。
<ねえ、あなた……>
甘い声が彼の頭の中に響く。
ああ、と返事ともため息ともつかない声が、克彦の口から漏れ出た。
<あなたは私を愛してくれる?>
当たり前だ。だってお前は、美津子なのだから。美津子なら、愛している。
<嬉しい……>
蠱惑的な声が違和感を感じさせた。美津子はこんな話し方をしただろうか……?
その瞬間、眼前を赤い霧が覆った。血のような色にも関わらず、不思議と嫌悪を覚えなかった。
むしろ懐かしく。
そして暖かく。
何より優しい色だと思えた。
……まあ、いい。そんなことは、どうでもいい。美津子が一緒にいてくれるだけで、俺は幸せなんだ……。
<そうよ……あなた>
<あなたは、愛してくれるだけでいい>
<葉沢美津子を>
<それは、あなたの愛する人>
<だから、わたしは葉沢美津子よ……>
「美津子……」
ふらり、と克彦は立ち上がった。
<……どうしたの?>
「行くんだ……君との思い出の場所へ」
<私への愛が眠る場所……>
指輪が淡い光を瞬かせた。
<それなら、行きましょう>
<あなたが私をもっと愛してくれるから>
「愛しているよ……ずっと」
愛している、愛している、愛している。
克彦はただそれだけを想った。
<私もよ、あなた……>
その時、家のチャイムが聞こえた。
「……出てこない、か」
瀬川は顎の不精髭を撫で、振り返った。瞳を閉じた麗子が、
「――結」
と呟いた瞬間、彼女の身体から仄かな樹の香りが周囲に立ちこめる。
「人払いの結界を張ったのか」
「ええ。いざとなってからでは遅すぎるでしょう?でも、あまり広い範囲に張ってないから気をつけて」
「分かってるさ」
もう一度チャイムを鳴らしてみるが、やはり誰も出てくる気配はない。
「……いないのかしら?」
「すれ違いか?そいつは参ったな」
克彦の勤める会社へ電話をかけ、彼が今日も出勤していないことは確認したのだが。
「ったく、受付の女の子を口説くのにどれだけ手間がかかったと……」
「瀬川くん」
「冗談さ。……確かめるぞ」
鼻をひくひくと動かしながら、意識を集中させる。
甘い、香りだ。
「この間嗅いだ妖気と同じか……少し待っていてくれ」
後半の台詞を麗子に向かって言うと、瀬川の身体が突然沈み込んだ。いや、下半身から徐々に自分の影と同化している。
これも彼の持つ妖力の一つだ。
影と化した瀬川は、そのままドアとタイルの隙間をすり抜けて中へ入り込んだ。それからドアが開くのに数秒と経たない。
「待つ必要はなかったわね」
「女性には礼儀を尽くすもんさ――と」
瀬川の表情が不意に引き締まり、背後に鋭い目を向ける。その視線の先を追いかけた麗子も微笑みを消した。
ギシ……。
階段の軋む音がした。脚から腰、そして胸と、少しずつ姿が見えてくる。チャコールグレイの背広を着ていた。
ギシッ……ギシ……。
ひどく緩慢な動きだった。一段下りる度に男の動きが止まる。壊れかけのロボットのようだ。
そして、男が廊下に降り立った。うつむいていた顔を玄関の方へゆっくりと動かす。
瀬川は息を呑む麗子の気配を察した。男の放つ異様な雰囲気に驚いたのだろう。
本来なら温厚そうな顔つきには生気がなく、口元に浮かぶかすかな笑みが不気味さを増していた。
「……葉沢、克彦さんだな」
確認するような瀬川の問いにも男――葉沢克彦は何も答えず、ゆっくり玄関まで来ると靴を履き始めた。間近にいる二つの存在に目を向けもしない。
いや、彼には見えていないだけだ。しかしどちらにせよ、瀬川の気に障ったことは間違いなかった。
「ちょっと待てよ、聞きたいことがある」
克彦の肩をつかんだ手が、ぱんっと弾かれる。一瞬、虚ろな克彦の瞳に瀬川の姿が映し出された。
「……行くんだ……美津子と一緒に」
「あんたの奥さんは死んでいる」
「行くんだよ……思い出の場所へ」
「――待ちなさい」
麗子が外へ出ようとする克彦の前に立ちはだかる。瀬川ですら久しく見ることのなかった冷たい双眸が、そこにあった。
「もう、やめなさい。あなたのしていることは悲しみを増やすだけ」
「……邪魔をしないでくれ……!」
克彦の全身から殺気が放たれる。
「麗子、下がれ!」
「きゃあっ」
突き飛ばされた彼女は後ろに倒れ込んだ。タイルにぶつかった左肩を鈍い痛みが襲う。強靱な肉体を持つ妖怪だが、痛覚がないわけではない。
「麗子!」
「……瀬川くん、あの人を追って!」
迷っていたのは数瞬だった。わずかな動揺を心の奥へ押し込み、瀬川は駆け出した。
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