§囁く幻の中で

早朝の教室には、まだ誰もいない。太陽の光も弱く、標高の高い諏訪市では春も終わりに近づいているとはいえ、肌寒かった。
窓を開けると、冷たい空気が流れ込んだ。わずかに残っていた眠気も、綺麗に消えていくのが感じられた。

「母さん、か……」

もはや思い出の中にしかない母・幸穂の姿が脳裏に現れて、すぐに霞む。十年という時は、大切な思い出すらも幻に変えてしまうのかもしれない。

「瀬川さんの言ってることは正しいけど葉沢さんのお母さんはなくなって間もないんだ……仕方ないじゃないか」

人間だったら、誰だってそのはずだ。

風斗は天狗と人間のハーフだ。大社堂の妖怪たちのように、想いそのものから生まれたわけではない。加えて一年前までは自分を人間だと思っていたのだ。
だから、風斗にとって、妖怪は他の人間たちが考えるように異質な存在だ。

「瀬川さんには分からないよ……」

人の想いが。その心が。

不意に教室の扉の開く音が響いた。振り向いた風斗は一瞬緊張し、だがすぐに笑みを取り戻した。

「おはよう、葉沢さん」
「おはよう……壬生くん、どうして?」
「……まあ、ちょっとね」

どうも女の子と話すのは苦手だ、と風斗は思わざるをえない。強烈な個性の幼なじみと十六年間も一緒だったせいだろうか、どうしても一歩引いてしまう。

「葉沢さんは……寂しい?」
「え?」

つい、心の中の言葉がこぼれる。けれど、どうしても聞いておきたかった。

「お母さんのことを……忘れられない?」
「……うん」

数瞬の間の後、彼女は頷いた。今まで隠してきた想いがあふれ出そうになるのを、必死で堪えている。

「もしかしたら、お母さんが生きているって思っているのは、私の方なのかもしれない……私が、寂しいから……」

顔を伏せると、その瞳は眼鏡が反射する朝日の光で見えなくなった。
冷たい光だと、風斗はふと思った。

突然、詩織が手にしていたスケッチブックを開き、めくり始めた。そこに何が描かれているのか、風斗はただ一つしか知らない。
詩織の手が止まる。細い指がかすかに揺れていた。次第にその震えは腕へ、肩へ、そして身体全体に伝わっていく。

「……お母さん……」

絞りだすように彼女は呟いた。その呟きは風斗の耳に入る。彼は天狗の血を引く。風の震えは聞き逃さない。

「お母さん……お母さん……」

風斗は唇をきつく噛み締めた。彼女の痛みが分かりすぎて何もできない。

――俺は結局、何もできないのか? 母さんを守れなかったように、葉沢さんも助けてあげられないのか……?

窓際から離れ、風斗は泣き続ける少女へ歩み寄った。
そっと、震える両肩に手を置いた。詩織の身体がびくっと波打ち、そして震えが消える。

「ごめん……俺、何もできない……」
「壬生くん……」
「だけど……だけど、想いは一緒だから」

その時、詩織が風斗の胸に寄り掛かった。今度は風斗の身体が一瞬波打つ。だが、不思議と心は落ち着いていた。

<あなたも同じね>
<あなたも寂しいのね……>

風斗は甘い安らぎを感じていた。
どこか懐かしく、暖かく、優しい。

そう、まるで母の温もりのような……。

そんな誰かの囁きを聞いた気がした。
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