焼きたてのクッキーと、入れ立ての紅茶の香りが部屋の中を満たしていた。本来なら誰でも心地よい空腹感に誘われるはずだ。
しかし、その場にいる者たちの表情は決して明るくない。鈍感な者であっても、緊張した空気に気づくだろう。

ふぅ、とため息をついた者がいた。

瀬川圭二郎だ。

ソファーに深々と腰掛け、正面に座る風斗を眠そうな目で見つめる。どことなく疲れているようだった。

「……お前はどうしたいんだ? 風斗」

何度目かの質問をもう一度繰り返す。将来の怠け者である彼にしてみれば、面倒この上ないことだ。
だが、今度ばかりは面倒だ何だと言っていられない。

「このまま『奴』を放っておけって言うのか? 葉沢克彦の心の平安のために?」
「俺は……!」

むっとした風斗が言い返そうとした瞬間、麗子が居間に入ってきた。タイミングを外され、風斗は押し黙る。

「どうだった、パソ通の方は?」

うんざりした顔の瀬川は話題を変えようとして、麗子を見た。彼女の部屋にはパソコンがあるのだ。一見すると機械音痴に考えられがちな麗子だが、"大社堂"の中で最もその方面に強い。

「東京のネットワークに尋ねたんだろ?」
「ええ。でも、返事はもう少し後ね」
「そうか……」

諏訪と同様に日本中、あるいは世界中に。規模的に見れば"大社堂"などより遥かに大きなネットは数多い。
そうしたネット間での情報収集は、緩やかなつながりを生むことから、積極的に利用されている。

「しかし、のんびりしてる時間はないな。どうも無差別に人間を襲うつもりらしい」

ずっとつけっ放しだったテレビでは、三上市議に続く第2の犠牲者たちのニュースを続けていた。チャンネルを変えると「奇病の一種か!?」などと馬鹿馬鹿しい報道までされている。

麗子の唇から、つい笑い声が漏れる。

「あらあら、大変ねぇ」
「ったく、人間ってのは……」

これ以上の気疲れは面倒だと思ったのか、瀬川はテレビの電源を切った。その途端、居間全体が静寂に包まれた。

しばらくの沈黙の後に、瀬川が口を開く。

「やはり怪しいのは、茜が調べてきた葉沢美津子の家族だ」
「でも、瀬川さん!葉沢さんは人に暴力を振るう人じゃ……いてっ」

身を乗り出す風斗の額を、瀬川は指で弾く。

「慌てるなって。俺は別に市議や学生どもを襲ったのが、その詩織って子だとは決めつけていない。もう何度も言ってるぞ」

冷めた紅茶に軽く口をつける。

「それに詩織って女の子じゃ、野牟田が見た過去と食い違うことになる」

物や場所の過去を見る術を持つ野牟田によると、三上市議を襲ったのは男。そして彼に助力する女性。
しかし女の姿はそこにはなく、声だけが聞こえたのだという――野牟田の術では聞けるはずのない声が。

「でも……」

風斗は納得できない様子で目を逸らした。

「……駄目なんですか?もしかしたら、葉沢さんたち親子の悲しみを癒やしてくれているだけかもしれないのに」
「駄目だ」

瀬川がぴしゃりと言い放つ。

「確かに『奴』は葉沢親子の悲しみを癒やそうとしているのかもしれない」

由美と共に大社堂を訪れた詩織は、戸惑いつつも麗子たちに詳しく事情を話した。結局、「気のせいだ」ということにして彼女を家に帰している。

「原因は葉沢美津子が三上市議にひき逃げされたことが発端だ」
「茜ちゃんと舞花ちゃんのおかげね」

麗子がしっかりと釘を差す。茜は葉沢克彦を徹底的に調べ、舞花は三上市議の息子からひき逃げのことを聞き出したらしい。
裏付けは瀬川が取った――警察に三上市議の手が回っていたのだった。

「だが、そうしたことから生まれた妖怪にしては少々やり過ぎだ」
「それは……」

風斗は反論できない自分が苛立たしかった。瀬川が言っていることは正しい。いくら葉沢家の者のためとはいえ、他人を傷つけるようなことはあってはならないはずだ。

けれど……。

「もう一つ。風斗、お前は『奴』がこのまま葉沢家の人間と一緒にいて、いいと思っているのか?」

ぐっ、と風斗は言葉に詰まった。

「そうね……」

沈鬱な面持ちで麗子が頷く。

「このままだと二人は、美津子さんの幻を見続けて生きていくことになるわ」
「でも……」

風斗の脳裏に詩織の笑顔が浮かぶ。そして図書館で見た、あの瞳。かつての自分とよく似た瞳だった。

「でも、あともう少しだけ……!」
「風斗!」

その声は決して大きくはなかった。だが、反論を許さない迫力があった。

「お前はもう、この件には関わるな」
「瀬川くん……!」

咎めようとした麗子も瀬川の無言の圧力に黙るしかなかった。

彼の瞳を見てしまったから。

「いいな?風斗」

風斗は何も答えず、立ち上がった。顔を伏せたまま足早に麗子の前を通り過ぎる。
しかし階段を下りようとしたところで歩みが止まった。

「……瀬川さん」
「何だ?」

返事はしたが、瀬川は風斗の方を見ようとはしなかった。
風斗は、ぽつりと呟いた。

「大切な人を亡くした時の想いを……瀬川さんは知らないんだ……」

階段を駆け下りていく音を耳にしながら、瀬川は目を閉じた。

「……馬鹿野郎。知ってるから、わざわざ説教してるんだぞ……」

その言葉に麗子は、哀しげな表情を浮かべるだけで何も言おうとはしなかった。

ただ、一言だけ。

「……いいの?」

答えはなく、ひどく重たい沈黙だけが取り残されていた。
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