怖い。

葉沢詩織は近頃そう感じるようになった。家に帰ると、身体が緊張で強ばる。自分でも意識しないうちに。

怖い。

怖いのは、父だ。母の美津子が亡くなってから、父・克彦の様子が変だった。
最初は、寂しさのせいで元気がないのだと思っていた。見ていてこっちが恥ずかしくなるくらい、仲が良かった二人だから。

けれど。
下駄箱の奥にしまったはずの母の靴が、なぜ玄関に出ているのだろう?
一度も料理を作ったことのない父が、夕食を用意したのだろうか?

そして。
父の薬指に光るものは、何? 微妙に指輪の紋様を変えてある、と父は言っていた。その違いは小さい頃から見ていて、よく知っている。だとすると、あれは……。

父にそれとなく尋ねてみても、返ってくる言葉は同じ。

「母さんは、生きているんだ」

怖い。

いるはずのない母の姿が見えるような気がした。それどころか本当に生きているのではないかと思い始めている。
そんなこと、あるわけがない。

お母さんは死んでしまった。猛獣のように襲いかかってきた自動車に、無惨に跳ねとばされて。

自分の目で見ている。

血。真っ赤な血。お母さんの血。

手にしていたスケッチブックは、私の誕生日のプレゼント。
真っ白な紙が、紅に染まった。
私は泣かなかった。悲しくなかったわけじゃない。悲しすぎて、泣けない。

認めたくない。
あんな一瞬で、命が消えるなんて。

お母さんを殺した人は結局分からなかった。
でも、お父さんには誰なのか分かっていたように思えた。
お葬式の夜に見た、怒りと憎しみの顔。
初めて見た、お父さんの顔。

怖い。

でもそれは、今感じているものとは違う。お父さんの怒りは私にも分かるから。

けれど。
今起きていることは分からない。理解できない。だから、怖い。

お母さん……。

「……ただいま」

明るく言おうとしたが、無理だった。しんと静まり返った家が、まるで他人の家のように見える。お母さんがいた頃は、こんなじゃなかった……。

いけない。こういう風に考えるから良くないんだ。

「お父さん、いる?」

靴を脱ぎながら居間の方へ声をかけるが、返事はなかった。靴があると言うことは、今日も会社を休んだらしい。

「お父さん、いるんでしょ?」

手にしたスケッチブックを壁に擦らないようにして、階段を上がっていく。

「……お父さん?」

不意に誰かの話し声が聞こえ、詩織は身を堅くした。

――女の人の声?

早まる鼓動に全身が熱くなる一方で、冷たい汗が肌を伝わっていく。
息を潜めて、父の部屋に近づいた。ひどく緊張しているのに、足に力が入らない。

今度は男の声がした。すぐに分かる。お父さんの声だ。

――じゃあ、女の人の声って?

「……あなた……」

ぴくり、と身体が揺れる。
違う。そんなわけない。知り合いの人に電話しているだけ。
でも、それだったら私に聞こえるはずがない……。

誰なの? まさか、本当に……?

父の部屋の前で立ちつくしたまま、詩織は震えていた。

怖い。

何もかも分からないから、怖かった。
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