4. 震える心
「おっさん、人にぶつかっといて謝んねえわけ?」
雄二はにやにやと下卑た笑いを浮かべて、中年の男の前に立ちふさがった。残る4人も男の周囲に回り込む。
男はぼうっとした表情のままだった。突然現れた若者たちの存在すら感じていないようだ。
雄二は男が怯えていると思い、小さな優越感に浸っていた。
「金、くれないかなあ?どうせ腐るほど持ってんだろ」
吐き出された息から、その年齢にあってはならない異臭が立ちこめた。その臭いを嗅いだのか、男の顔がかすかに歪む。
けれど瞳はあらぬ方をさまよっている。
「おい、早く出せよ」
雄二は男を乱暴に突き飛ばし、仲間に身体を押さえさせた。その間に背広の内ポケットを探る。いつもの手口だ。
ただ、いつもと違うのは相手がまったく抵抗しないことだ。もっとも、抵抗しても1対5では勝ち目がないはずだが。
しかし何より雄二が違和感を感じたのは、この男が恐怖の表情すら浮かべていないことだった。
――何なんだ、こいつ……?
だが雄二のそんな疑問は、膨らんだ財布の前にあっさりと弾け飛んだ。
中を見た仲間たちが驚きの声を上げる。
「やったじゃん。結構入ってるよ」
「おっさんのおかげだな」
雄二たちは男を芝生に叩きつけた。日が暮れた公園に訪れる者などいない。彼らにしてみれば、こんな所にいた男に感謝したいくらいだった。
調子に乗って、仲間の一人が男に蹴りを入れた。うっ、という呻き声が少年たちにサディスティックな喜びを与える。
彼らは無抵抗の人間には何をしてもいいのだと考えていた。
少なくとも、彼らの世界の中では。
だが。
<――あなたたち、この人を傷つけたわね……>
どこからか女性の声が響いた。雄二たちは慌てて辺りを見回すが、誰もいなかった。
「何だよ、今の声……」
「馬鹿。気のせいに決まってるだろ」
雄二は吐き捨てるように言うと、男を再び蹴りつけた。さらにもう一度。
<また、傷つけたわね……>
気のせいではない。
5人はむくりと起き上がった男を見つめたまま、なぜか動くことができなかった。
間違いない。女の声は、この男から聞こえたのだ。
そんな馬鹿な――雄二は身体の震えを必死で抑え込んだ。そんなこと、あるはずがない。
<この人は私を愛してくれているの。だから、守るの>
いや、違う。
こいつの口は動いていない。男は最初から話していないのだ。
じゃあ……じゃあ……この声はどこから、誰が話しているんだ?!
<だから、あなたたちを許さないわ……>
「ひっ……」
誰かがくぐもった悲鳴を上げた。あるいは雄二自身だったかもしれない。それを確かめる暇など彼にはなかった。
男の指に光る指輪が暗い輝きを放った。
どす黒い血のような、赤。
血に濡れた瞳。
それが、雄二たちを見つめている。
「う、ああ……あ……」
瞬間、雄二はへなへなとその場に崩れ落ちた。全身から力が急速に奪われていく。気怠さとも呼べない何かに蝕まれていく感覚。
霞む視界の中で、仲間たちも次々と倒れていった。先程までのちっぽけな優越感はどこかへ消え去り、恐怖が暴れ回っていた。
男は雄二に瞳を向けた。その双眸はうつろなまま、そこにあるべき雄二の姿がない。
こいつは何も見ていない。
いや、この男は雄二たちには見えない何かを見ているのだ。
<ねえ、あなた……あなたは私を愛しているわよね?>
「ああ……」
倒れた雄二の耳に。男の声がかすかに飛び込んだ。そこには何の感情もこもっていないことが、彼にも分かった。
しかし、それが分かったところで彼にはどうしようもないのだ。
――何なんだよ、これ……。
そのまま、雄二の意識は闇に呑み込まれていった。
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