3. "大社堂"
長野県諏訪地方。諏訪湖を中心とした盆地にある2つの市と1つの町が、主にそう呼ばれている。

標高が高いため夏でも冷涼な気候で、避暑地として有名である。また、温泉が豊富に湧き出ており、JR上諏訪駅には風呂まで作られたほどだ。観光地化していく一方で、古くは甲州街道や中山道の宿場町として栄えた名残が今もそこかしこに存在している。

特に下諏訪町はその名残を今も多く留めている。諏訪大社下社の門前町であることも関係しているのだろう。

下社の一つ、秋宮へと向かう上り坂を風斗は歩いていた。ちらっと背後に視線を移す度にため息をついている。
風斗の視線の先にいるのは、同年代らしいポニーテールの少女だった。跳ね回るように歩くその姿からは、元気があふれるほど感じられた。

「なあ、由美……。やっぱりお前、帰った方がよくないか?」

榊由美の家――風斗はおよそ1年前から居候している――は、ここから歩いて15分ほどの距離にあった。今なら大した回り道をせずに帰れるだろう。

「どうして?」
「どうしてって……」

そういう答え方をされるとは考えていなかったらしく、風斗は困惑していた。

「危険だとか、思わないわけ?」
「ぜぇんぜぇんっ!」

由美と呼ばれた少女はジャンプして風斗の隣に並ぶ。

「頼もしいボディーガードがいるじゃない」
「……誰が?」

ごきっ。

「あのねえ!風斗以外に誰があたしを守ってくれるってゆーの?」
「殴らなくたっていいだろ……?」

頭をさすりながら風斗は言った。

「好奇心だけで動いてると、また大変な目に遭うぞ」
「失礼ねー。あたし、好奇心だけで動いてるわけじゃないわよ」
「じゃ、何で動いてるわけ?」

風斗の質問にすぐには答えず、由美は斜め前へジャンプすると、くるりと回転して風斗と向き合った。

「決まってるでしょ」
「?」
「風斗が――」

少し口籠もり、頬が赤く染まっていた。

「俺が?」

風斗はぽかんとした表情のまま、彼女の言葉を待った。普通ならば何となく気づきそうなものだが、彼は例外である。
そんな風斗をよく知っているだけに、由美は逆に不満だったようだ。

「――大馬鹿だからよ!」

そう言い捨てると、彼女は坂道を勢いよく駆けていった。

「……大馬鹿って……?」

よく分からず、風斗は首を傾げた。


土産物屋・大社堂は秋宮へ向かう先ほどの通りから伸びる、細い路地の奥にある。場所的に考えても商売を行うのには不向きなのだが、人間社会の影に潜むものたち――妖怪のたまり場としては最適である。

「だからって、こんな場所に建てなくても」

というのが由美の正直な感想だ。何しろ、人間の中では大社堂にもっとも訪れている彼女でさえ、滅多に1人で来ることはない。――すぐに迷ってしまうからだ。

「こんにちは……って、やだ、鍵も掛かってないじゃない」

今では懐かしいとさえ言える引き戸のがらがらっと言う音に負けない由美の大声が、辺りに響く。

――そういうことは大声で言うなって。

何とか追いついた風斗は呆れ顔だ。さすがに口には出さないが。
店には誰もいない。これでは店内にある品を好きなだけ取っていって下さいと言っているようなものだ。

「……不用心なんだからぁ」
「真樹さんらしいけどね」

風斗は苦笑しながら、中へ入った。由美はすでに店の奥にある階段へ向かっている。

「瀬川さんにまた怒られそうだ……」

風斗は戸に鍵を掛けて、後を追った。2階からはすでに、由美や麗子の笑い声が聞こえてくる。
由美が今回の件について口を出す前にと、風斗は短いが急な階段を素早く駆け上がった。

2階の居間には由美を除いて6人、いや5人と一匹がいた。どうやら風斗が最後だったらしい。

「こんにちは、真樹さん」
「あら、風斗くん、いらっしゃい。待っていたわよ」

麗子が振り返って風斗に微笑みを向ける。

「みんな、もう来てたんですね」

何となくほっとしながら、風斗は仲間たちに軽く頭を下げた。

「遅いぞ、風斗」

ソファーに座っている瀬川が挨拶代わりにグラスを上げる。

「おまけに由美ちゃんまで連れてきちまって、まったく」

よく見ると、由美はいつの間にか瀬川の隣に座っていた。

「あ、すいま・・・・」
「おまけって何よ。あたしだって役に立つんだから」

風斗の言葉を遮り、由美が瀬川に噛みつく。

「訂正してよね、瀬川さん。じゃないと、おじさん呼ばわりしちゃうよ」
「あー、分かった分かった」

さしもの彼も由美には由美にはたじたじのようだ。

「風斗くん、とにかくここへ座ったらどうですかぁ?」

のんびりした口調でそう言ったのは、20代前半くらいに見える太った青年であった。顔つきものんびりとしており、人の良さそうな雰囲気があった。「壺中天」と書かれた半纏を着ている。

彼の名前は野牟田広という。諏訪市の諏訪大社上社本宮の近くで骨董品屋を営んでいる。

「何しろ由美さんの正面という最高のポジションですからねえ」
「野牟田さんってば何言ってんのよっ!」

真っ赤になって怒鳴る由美の剣幕にも、野牟田は涼しい顔だ。

「さあ、風斗くん。どうぞ」
「は、はあ・・・・」

それでもやはり分かっていない風斗だった。
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