2. 忌むべき予兆
『……最初のニュースです。今日午後5時頃、三上修一市議が諏訪赤十字病院に緊急入院しました。三上市議は自宅付近の路上で倒れており、現在も昏睡状態にあるそうです。病院側からは、特に外傷はないため精神的ショックによるものではないかという報告がされています。警察では三上市議の意識が戻り次第、事情を聴取する予定です。……』

「――何だって?」

眠そうな目でTV画面を見つめていた30代半ばの男は、向かいのソファーに座る美女へ視線を移した。

「妙だと、思わない?」

整った美貌だが、人をほっとさせる雰囲気をもつ20代後半のその女性は、もう1度同じ台詞を言った。

「外傷もなく昏睡状態になるなんて」
「精神的ショックのせいなんだろ」

男の方はさほど興味がない様子だった。背の低いテーブルに置かれたグラスを取ろうとするが、美女の白い手に撃墜される 。

「飲ませてくれよ、麗子」
「駄目」

麗子と呼ばれたその女性の答えはそっけなかった。

「瀬川くんがお酒を飲むと、役に立たなくなってしまうもの」

くすっと笑いがこぼれる。しかし、瀬川にとっては笑い事ではないらしい。

「そんなに気になるのか?」
「そうね。お酒代も馬鹿にならないし」

ずる。

傾いた体を立て直し、麗子を軽く睨む。

「そうじゃなくて、市議のおっさんが倒れたことが、だよ」
「ええ……」

麗子の表情から笑みが消えた。瀬川も彼女の言わんとしていることに気づき、瞳に真剣な光が宿る。

「――絡んでるっていうのか?」

あえて「何が」を言わなかった。大っぴらに言うものではないし、言いたくもなかった。

すなわち、妖怪。

人の様々な『想い』から生まれる、もう一つの生命。恐怖、愛情、憎悪、空想……無限とも言える『想い』は生命エネルギーと呼ばれる力と触れ合うことで、通常とは違う生命をこの世界に現す。

それが、妖怪。
人間など及びもつかない超常的な能力を持つ、闇に潜むものたち。

この2人――真樹麗子と瀬川圭二郎も妖怪なのだ。
ここ、長野県諏訪地方に伝わる「御柱祭」で、古代からの信仰と祭りにかける人々の想いが宿った神木――御柱が麗子の正体である。
瀬川は酒を飲むために人里に下りてきて人を化かすとされた、かわうそ。人の想像力が生み出した存在だ。

妖怪にも様々なものがいる。2人のように人間を愛する妖怪がいれば、反対に人間へ危害を加える妖怪もいるのだ。
この事件が、そうしたものたちの仕業である可能性は少なくない。

「……分からないわ。今は、まだ」

耳にかかる緩やかなウェーブの髪をそっとかき上げる。左顎の黒子と相まって、何とも言えぬ色っぽさがあった。

「……ぼ〜っとして、どうしたの?」
「いや、何でもない」

――お前に見とれていた、なんて言っても分からないよな、麗子には。

瀬川には苦笑いするしかなかった。

「ま、お前さんの勘を信じるしかないってわけだな、今は」
「調べてくれるの?」

――やれやれ。そういう目をされちゃあ、やるしかないだろう?

瀬川はゆっくりと立ち上がった。



「ここ、か……」

瀬川は車のドアを乱暴に閉めて、辺りを見回した。夜とはいえ、家から漏れ出る光や街灯があるため、ほとんど支障はなかった。

夕食時の家庭に訪問し、三上市議が倒れていた場所を詳しく聞き出す事は、探偵稼業の彼にも困難だった。
胡散臭い目で見られ、追い払われること6軒目でようやく知ることができたのである。

「惚れた女のためならばってね。我ながら困ったもんだ」

言葉とは裏腹に瀬川の表情は真剣だ。三上市議が倒れていたという路地を覗いてみる。特に変わったものは見当たらない。
あれば警察が拾っているだろうが。

「どれどれ……。」

顎の不精髭をさすりながら、鼻をひくひくと動かす。

「――匂うな」

妖怪のいた気配を、瀬川は感じ取っていた。時間が経っているせいか、妖気はごくかすかだった。
しかし、間違いない。

「忙しくなりそうだな、これは」

口元に皮肉めいた笑みを浮かべ、呟いた。



「――そう。すぐに調べてくれる? ……ありがとう。それじゃ、お願いね」

古い黒電話の受話器を置くと、麗子は安堵のため息をついた。

「連絡はついたのか?」

紅茶を一口飲んでから、瀬川が尋ねる。彼としては酒を飲みたいところだが、酔っぱらうわけにはいかない。

人間たちが<かわうそ>を無類の酒好きと想像したせいで、瀬川は酒に弱いのだ。

「……ええ」

ソファーに腰掛けてから数秒して、麗子はゆっくり答えた。

「全員集まるわ。久しぶりにクッキーでも焼こうかしら?」
「勝手にしてくれ」

いささかズレた台詞も、数百年も聞いていれば慣れてしまう。
瀬川は窓の外を眺めていた。

「……三上市議は強引な手口のせいで敵も多い人物よ。」
「知ってる」
「もしかしたら、恨みを持つ人間の仕業なのかも……」
「矛盾してるぞ、さっきと」

彼女の淡い望みを断ち切るように、瀬川は告げる。

「あれは、妖怪の仕業だ」
「分かってるわ……」

瞳を伏せたまま、麗子は頷く。

「でも、どうしてなのかしら? 同じ人の想いから生まれた存在なのに……」
「想いから生まれた存在だからこそ、こうなるんだろうよ」

瀬川が彼女を見つめ、軽く微笑んだ。

「とにかく、このままにはしておけないだろう?」
「ええ」

人間をはるかに上回る妖怪たちの力ならば、世界を変えてしまうことなど造作もない。
しかし、それゆえに善なる妖怪たちは人との接触を最低限に保つのだ。
大切な人の心を、守るために。

「止めなくてはならないわ――必ず」
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