1. 目覚める面影
「……やっぱり、ないか……」
壬生風斗は呟きと共に、小さなため息をついた。本の背表紙をなぞっていた指が力なく下がる。
制服である紺のブレザーをきちんと着ているところに、少年の真面目さが表れていた。しかし、その幼い顔立ちと高校二年生にしては少々低い身長が、親しみやすさを守っている。
「楽しみにしてたんだけどなぁ」
昼食を抜いてまで読もうと思っていた『南総里見八犬伝』だが、一足先に誰かが借りてしまったらしい。
声に恨めしいものが混じってしまうのも仕方ないといえた。
中央校舎の二階にある図書館。
昼休みが始まったばかりで、生徒の数はまだ少ない。司書室の図書委員らしき女子生徒が甲高い笑い声をあげている。これはいつものことなのか、誰も気にしていない。
「さて、どうするかな……」
時計を見て、少し悩む。今頃、正面玄関のパン屋は満員なのだ。
「まぁ、仕方ないか」
風斗は書架を見ながら出口へ向かった。
どんっ。
「――きゃっ!」
不意に横手から現れた少女と軽くぶつかった。彼女の持っていた赤いスケッチブックが床に落ち、その拍子に開いてしまう。
「ご、ごめん――って、葉沢さん」
「壬生くん……」
内気そうな少女の瞳が戸惑ったように揺れる。一瞬心配してしまうほど、泣きそうな表情だ。
彼と同じクラスのその少女――葉沢詩織は三つ編みに眼鏡という近頃では珍しく目立たない風貌だった。
事実、風斗はこのクラスメートのことをよく知らないでいた。
――ん?
床に広がったスケッチブックにふと目を移し、それを手に取った。
「これ……」
詩織によく似ているが、もっと歳を重ねている女性の絵だ。暖かなまなざしが人柄を思わせた。
――何だか俺の母さんに似てる……そんなわけ、ないのに……。
「駄目っ、返して!」
かすれた叫び声をあげ、詩織はスケッチブックを強引に奪った。中を見られたのが恥ずかしかったのか、しっかりと抱きしめている。
「……・見た?」
「あ、いや、その……」
風斗はしどろもどろになった、元々嘘をつくことが下手な性格だ。
「ごめん」
「謝らなくてもいいんだけど」
そう言いつつも、かなり気にしている様子だった。警戒心めいた光が彼女に宿っている。
その瞳が、風斗の中で何かを感じさせた。見覚えのある瞳だった。
「それ、誰の絵? 葉沢さんに何となく似てる気が――」
「……お母さんの絵なの」
しまった――詩織の母が10日ほど前に亡くなったことを思い出し、風斗は自分の不用意な言葉を呪った。
気まずい沈黙が、流れた。
「ごめん。俺、そんなつもりじゃ」
「……分かってる。壬生くんは優しい人だし……。」
詩織が微笑みを見せた。無理しているのがすぐに分かってしまう。
「大変だったね」
「……ううん、私は、もう……」
その後は続かなかった。いや、続けようとした言葉を出せるわけがない。
――「大丈夫」などと。
「ただ、お父さんがすっかり元気をなくしちゃって……何だか急に老けこんだみたい」
「そっか……本当に、ごめん」
「いいの。だって、壬生くんも……」
突然、風斗の心に苦いものが流れこんだ。
――母さん……。
幼い頃、風斗の母・幸穂は死んだ。薄れていく記憶の中で、母のあの姿だけは忘れることができない。
目の前で、赤い血に染まった母を。
「壬生くん……?」
詩織に呼ばれて、風斗は顔を上げた。いつの間にかうつむいていたらしい。
ほんの少し瞳の奥が熱かった。
「まだ、駄目なんだな……」
「え?」
今度は彼が微笑んだ。
「もう何年も昔のことなのに、ね」
「そんなこと……」
詩織がもどかしげに首を振った。
「大切な人を失ったら誰でも悲しむでしょ?」
「だけど、いつまでも泣いているとお化けがやってくるんだってさ」
「え……」
詩織の顔が強ばった。それをみた風斗は、にっこりと笑う。
「……と、由美がそう言ってた。」
一瞬の間の後、詩織も笑いをこぼした。そして、上目遣いに風斗を見つめる。その表情は、わずかだが明るさを取戻していた。
「冗談だったの?」
「本当だよ。俺が母さんのことで泣いてた時、言ったんだ」
恥ずかしそうに頬を掻く。
「おかげで泣くのは止めたけど、お化けが怖くて眠れなかったよ」
詩織はもう1度小さく笑った。
「榊さんらしいわね」
「だろ?」
それを信じた自分が情けなくも感じるし、とんでもないことを吹き込んだ幼なじみに呆れもしてしまうが。
「――ありがとう、壬生くん」
笑顔のまま、詩織は言った。
「励ましてくれたんでしょ?」
「えっと、その……」
風斗はうまくごまかす台詞が見つからず、視線をさまよわせた。
壁に架けられた時計がちらりと見える。
「あ!」
いきなり大声をあげた風斗は腕時計で時間を確かめた。
12時45分34秒、35秒……。
「パ、パンが……」
「下のパン屋さんなら、もうほとんど売り切れていたけど……」
「……ううう」
空腹感が押し寄せてきて、がっくりと肩を落とす。だが、すぐに気を取り直した。このままだと本当に売り切れてしまう。
「葉沢さん、それじゃ」
「パン、残ってるといいね」
風斗は軽く手を振って走り出した。
その時。
<……あなたも悲しいのね>
女の声が響いた。風斗やその近くにいたものには聞こえない、囁き。
声の主は、すべてを知っていた。風斗の悲しみのすべてを。
<守ってあげたかったのね>
<でも、助けられなかったのね>
<だから、悲しいのね>
「女」はずっとそこにいた。2人の会話をすべて聞いていたのだ。
そして、風斗の心の想いも聞いていた。
<あの子は、愛しているのね>
<とても悲しんでいるわね>
<それなら……>
「女」は唄うように呟いた。
<それなら、私も愛してあげないと……>
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