第8章 覚悟
頬に当たる風が冷たい。
今は二月。それも夜である。暦の上では春であろうと、時には小雪さえちらつく事のある時期なのだ。

そんな中、武村は、ゴルフバッグを傍らに、ただ一点を見据えていた。

街灯にぽつぽつと照らされる、夜闇の向こう。
じわじわと近づいてくる、二台のエレキカーの光。
その光が近くなるごとに、武村の鼓動は早くなり、足元は震えた。

寒さのせいもある。
武者震いでもあるだろう。

しかし、正直に言うならば、やはり怖かった。
相手は実に八人。それも、この蒼明学園屈指のつわもの揃いである。
対してこちらは、武村ただ一人。勝敗を云々するのも馬鹿馬鹿しい。

だが、武村の役目は、生徒会に勝利することではない。
ただ、的場が動けるようになるまで時間を稼げばいいだけの話だ。

「当てにしてるぜえ、的場よぉ」

的場が機械の修理を終え、生徒会に勝利すれば、待っているのは武村たちによる学園の支配というこれ以上ない栄華である。

しかし、もし敗れればすべてを失うことになる。
この蒼明学園を追われることはもちろん、将来にわたっても、この事件は暗く影を落とし続けるはずだ。快適な人生設計など、望むべくもないだろう。

まさしくオールオアナッシング。
なんとも格好のいい言葉だが、まさしくその場面に直面している者としては、自分に酔ってなどいられなかった。

前方約50メートルの位置で、エレキカーが停まった。
後は徒歩で距離を詰めてくるのだろう。

武村にとっては、その距離がありがたかった。これで、最後の覚悟を固められる。

ゴルフバッグから、長い柄を持つ一本を引っ張り出した。
その片方の先端には、紫色の覆いがかぶせられていた。

「殺す気で、いかねえとな……」

その声は、わずかに震えていた。

エレキカーを降りた紀家は、まだ車内に残っている沖田と未紀に、やや冷たく言い放った。

「では、僕たちは行きますから。先生たちは、ここで待っていてください」

その言葉に、真っ先に反応したのは沖田だった。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 武村君の説得をさせてくれるって言ったじゃないですかあ!」

その慌てた声にも、紀家は冷淡である。

「それは、僕たちが必要だと思った時にしてもらうよ。それまでは、邪魔をしてほしくない。ああ、念のため言っておくけれど、車内の様子は本部でモニターさせてる。妙な気を起こさないでもらいたいな」

そう言ったきり、紀家はドアを閉めた。同時に、静かにロックがかかる。

それでも沖田はドアのレバーや、パワーウィンドウのスイッチまでガチャガチャといじっていたが、万策尽きたか、ひとつ大きな息を吐いてシートに身をゆだねた。

ふと見ると、隣の未紀は腕を組んだまま、離れていく紀家たちをただ眺めていた。その姿が、沖田には気に入らない。

「何やってるんですか未紀先生! 的場くんたちが心配じゃないんですか!?」

苛立ちに任せた怒声を浴びせられた未紀は、じろりと沖田を睨んだ。怯えた沖田が、黙り込む。

未紀は、生徒会の面々が充分に離れたことを確認してから、もぞもぞと助手席へ移動した。そこから、未紀はなにやら足元を探り始める。

「あの、未紀先生、何を……?」

沖田の問いを全く無視して、未紀は体を起こした。その手には、一本の赤い棒状のものが握られている。

発煙筒。

事故の発生などを知らせるために備え付けられているものだ。

未紀は自分の上着を脱ぎ、発煙筒を、握った手ごとくるんだ。そしてまた、上着の中でもぞもぞと手を動かしていると……。

しゅごっ!

その音とともに、上着の中から煙が噴出した。
上着の中で、発煙筒を点火したのだ。未紀はそれを、無造作に運転席に放り出した。

「な、なにをっ……!?」

慌てふためく沖田。
しかし、当の未紀は落ち着いたものだった。

「この車内はモニターされてるんでしょ? この火事を見れば、きっと向こうから開けてくれるわ」
「…そうか…」

と、一度は納得しかけた沖田だったが、見る見るうちに充満する煙と、上着に燃え移った炎を見ては、そうも言っていられなかった。

座席のシートは難燃性の物だろうが、それでもいつ引火するか知れたものではない。それ以前に、発煙筒の煙がほどなく二人を窒息に追い込んでしまうだろう。

沖田は、恐る恐る尋ねてみた。

「も、もし、ここがモニターされてなかったり、されてても出してもらえなかったりしたら……」
「死ぬわね」
「そんな!?」

一瞬、沖田は未紀が冗談を言っているものだと思った。
しかし、助手席のシート越しに未紀の顔を見たとき、沖田の背筋は凍りついた。

未紀は笑ってなどいない。
泣いてもいない。
不安そうな表情すら浮かべていない。
ただ、無表情でドアが開くのを待っていた。

未紀が言ったのは冗談でもなんでもなかったのだ。今ここでエレキカーから出られないのなら、死んだところでかまわないという覚悟をしている。
いや覚悟ですらあるまい。言うなれば、出られないとなれば後はどうでもいいのだ。自分の命でさえ。無論、沖田の命がどうなろうと知ったことではない。

沖田の喉もとに、苦いものがこみ上げる。

(この先生は……)

未紀は、ただ腕を組み、ドアのロックが外れるのを待っている。それ以外は、何も気にしていない。

(この先生はやばすぎる!)

炎はシートに燃え移り、煙はいまや車内全体に充満していた。
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