第7章 それぞれの理由
本当に、これがあの未紀先生なのだろうか?

有子は、未紀の変貌ぶりを、にわかには信じられなかった。
つい数時間前、君島をからかっていた時の明るさは微塵もない。そこにいるのは、消沈しきった、ただの四十女でしかなかった。

生徒会地下本部の一室に案内された未紀は、小さな机に座り、ただ無言のままうつむいている。同じ部屋には、有子、ゆかり、佑苑の三人がいる。他の者は、対的場戦の準備に追われていた。

沈黙を続けていた未紀が、ぽそりと言った。

「的場……響一はどうしているの……?」

佑苑が冷たく答えた。

「彼は今、もう一人の仲間と共に、地下コンテナ区域で我々を待ち構えています。二人の人質と、<育ちすぎα>というカードを握ってね。彼が何を目的にしているかは、あなたの方が良く知っているのではないですか?」

未紀は唇を噛み、再びうつむいた。

「未紀先生!」

そんな未紀の様子にたまりかねたのか、有子が机に手をついて言った。

「どうして、どうして先生はあんなことをしちゃったんですか? どうして的場に協力しなきゃいけなかったんですか? 何か脅迫でもされてたんなら……」
「……そうじゃないのよ」

有子の目に涙が浮かんでいるのを見て、未紀はどこか自嘲気味な、引きつった笑みをにじませた。
表情こそ変わったが、痛々しさは、うつむいていた時と変わらない。

「ごめんなさいね。話を聞いてほしいって言ったのは私の方なのに、こんなのじゃ時間を取ってもらった意味ないものね」
「全くそのとおりです。では、そこに気付いてもらったところで、さっそく話してもらいましょうか」

佑苑が、若干いらついた様子で未紀をにらんだ。

「今回の事件でのあなたの行動には、疑問ばかりです。的場に協力する代わりに何の見返りを約束したかは知りませんが、実際には、あなたはていの良いスケープゴートにされただけです」

確かに、生徒会側に有子のような能力者がいなかったとしたら、すべては未紀の独断として事件が処理されていたかもしれない。
いや、そもそも信吾幼児化すら発覚せず、単なる薬品の窃盗事件としてのみ処理されていた可能性も否定できないのだ。

「普通に考えれば、あなたは的場に騙され、利用されていたとしか思えません。しかし、あなたはそのことについて怒る素振りも見せていない。それも催眠術の影響かも知れませんが、だとしたら、あなたがここにいる理由が分かりません」
「私には、的場響一にとって不利な言動はできないはずだ、というのね?」

未紀の唇が、笑いの形に歪んだ。

佑苑の視線が、一瞬だけ有子とゆかりの間を往復した。
有子が前に出た。

「未紀先生。的場が先生の言動を制限していた、あの催眠術ですけど、今の先生からはその影響が感じられないんです。催眠術は、解けたんですか?」

未紀は、少しだけ表情を暗くしたが、すぐに笑顔で塗り固めた。

「そうね。そうだと思うわ。……でも、催眠術なんかが無くても、やっぱり的場響一には逆らわなかったと思う」
「どうしてです? 的場に協力したって、何もいいことなんて……」

未紀は目を閉じ、静かに首を振った。

「これは罪滅ぼしなのよ。私がひどいことをしちゃった、息子のためのね」
「息子……!?」

あまりにも意外な一言だった。しかし、それを否定しさろうとしても、脳裏に浮かぶのは補強要素だけだ。

四十代という未紀の年齢、
離婚歴があるという噂、
今回の事件における未紀の扱い、
そして、その待遇を享受していた彼女。

次の言葉を探すのに手間取っている有子たちに構わず、未紀は喋りだした。引きつった笑い顔は、そのままだ。

「あの子は、響一は、私のことを淫売だとなじったわ。……当然よね。私は、夫と、まだ小学生だった響一を捨てて、若い男に走ったんだから。夜遅く、夫の家を出ようとした時に響一に見つかってね。あの子、泣きじゃくりながら言ってたわ。『僕じゃ駄目なの?』ってね。まだ十歳になってなかったのに、おおよその見当はついてたみたい。夫が何か吹き込んでたのかもしれないけどね」

ひどく饒舌になっている。声のトーンも、急に明るさを増した。
しかし、その声は喉の奥で震えていた。

「でも、その時の私には、夫も響一も、何も見えてなかったの。見えてたのは、ちょっとかっこ良かった若い男の事だけ。……うふふ、でもね、結局パターン通り、騙されてお金取られてポイよ。さすがに、夫のところになんて戻れなかったわね。どの面下げて帰れるって言うの? 響一に合わす顔もないしね。」

声を震わせたまま、それでも平静を保とうとしていたが、それでも未紀の目が少しずつ赤くなり、目尻にぷっくりとした涙がたまっていく。

限界はすぐに来た。
わずかに鼻をすすり上げた拍子にその涙がこぼれると、未紀は心のタガを外してしまったのだ。

「でもね。それでも会いたかったのよ! 会って、許してほしかった! そのためにいろんな手を使って、やっとこの蒼明学園に赴任できて、得体の知れないサークルの顧問になって、それでようやく……ようやくあの子に会えたのに! やっぱりあの子は許してくれなかった!

 私が名乗ったとたん、響一はいきなり私を殴りつけてきたわ。無言のまま、あの冷たい目で私を睨んで! それで言ったの。
『あなたを母親などと思うつもりはありません。ですが、あなたがやらかしたことへの償いはしてもらいます』
って。

 私は、あの子に許してもらえるなら、って、いろんなことをしてあげたわ。でも、あの子はいつになっても、何をしても、許してはくれなかった! あの子の名を呼べば必ず殴られたし、一言も自分から話し掛けてくれなかった!

 だけどね、今回は違ったの。今度はあの子から声をかけてくれたの。
『あなたにしか頼めない』
って言ってくれたのよ!

 私には分かったわ。これが最後のチャンスだって。失敗したら、もう絶対に許してはもらえないって! だから……!」
「だから、的場の言うままに、オカルト研究会と万能科学部から薬品を盗み出したというのですか?」
「そうよ! だって、あの子があんなふうになったのは、私の責任だもの! 私さえあの子の傍にいれば、あの子はあんなにならなかったのよ! 母親がいなかったから、あの子の心は歪んでしまって、私さえいればあの子は素直なままで……!」
「ふざけないでください!」

突然、風が吹き付けた。
地下の一室で風が吹くわけはないが、未紀は確かに、佑苑から吹いた風に顔を打たれたように感じた。

見れば、佑苑の顔が青ざめている。こめかみが、わずかに震えていた。
怒っているのだ。
そして彼の目には、露骨な軽蔑が浮かんでいた。

「的場があなたを軽蔑するのも分かる気がしますよ。何ですって? あなたがいなかったせいで、的場はこんな事件を起こしたというんですか? ふん、子供を馬鹿にするのもいいかげんにしなさい!」

普段は決して見せることのない、強い語気。
佑苑が激昂している。彼のめったに見せない一面に、未紀は面食らい、有子はうろたえている。
冷静でいるのはゆかりだけだったが、決して佑苑を止めようとはしなかった。

「子供の性質が親の有無で決まるとでも言うのですか? 幼少期に親と別れた子供は精神を病むとでも言いたいのですか? ふざけたことを。親との別れなど、数ある環境変化のひとつに過ぎません。親であるというだけで、自分を過大評価するのはやめてください。
的場は、彼の意思でこの事件を計画し、彼の意思で実行したのです。
その動機に、あなたの入る隙間などありません。あなたは駒でしかなかったんですから! あなたは……!」
「それくらいにしたら? 若杜くん。あなたらしくないわ」

そこではじめて、ゆかりが佑苑を止めた。明らかに、佑苑の言葉が一段落したところを狙っての発言だ。
それは、言外に佑苑の主張を認めているという証拠である。

だがゆかりはそれ以上の追求をせず、話題を転じた。

「未紀先生。あなたがここに来た理由は、身の上話を聞かせるためではないはずでしょう? まして、的場を許してやってほしい、なんて頼みに来たとも思えません」

未紀は一度鼻をすすり、涙をぬぐった。一度激情をほとばしらせたためか、やや落ち着きを取り戻したように見える。

まだ声の震えは残っているが、ゆかりをまっすぐに見据え、はっきりと言った。

「結局、結局ね、私の言いたいことは一つだけよ。あの子を、響一を捕まえてほしいの。そのために、私にも協力させてもらいたいのよ」
「それを、信じろと?」

佑苑の冷たい一言にも、未紀は退かなかった。
真顔でうなずく。

「今までの的場への協力を、当然の罪滅ぼしと言ったあなたの、そんな言葉を信じろというのですか?」
「信じられないのも無理はないわ。いきなり掌を返すようなものだものね。でも、誤解しないで。何も私は、自分の罪を悔いたわけでも、正義に目覚めたわけでもないの。むしろ、これはあの子の為の要求なのよ」

もう、声は震えていない。
涙も出ていない。
だが、痛々しさだけは変わらなかった。

有子が、悲しそうに言った。

「先生は、的場先輩にこれ以上の罪を犯させたくないんですね?」
「きれいに言えばそういうことね。でも、分かっているんでしょう? 私が考えてることは、そんな殊勝なものじゃないのよ。……あなたたちも、承知の上よね?」

佑苑とゆかりは答えない。

「響一の立てたこの計画は、すでに破綻してるわ。生徒会にここまで追い詰められたら、もう修復は不可能だものね。……もし道があるとしたら、あなたたちを催眠術で操るくらいのものだわ。でも、そんなことをさせるほど、生徒会も甘くないし、悠長に術をかけてる時間もない。
 じゃあ、どうするかといったら、あとはせいぜい、正面からぶつかって、事件を追ってるあなたたちを倒すくらいじゃない?」
「的場には、僕たちを倒せない、と?」
「ええ。人数のこともあるしね。……でも、何人かはやっつけられるかもしれない。いえ、下手をしたら、殺してしまうかもしれないわ。それじゃ困るのよ。
 今、響一を捕まえれば、たいした罪にはならないわ。あの子は未成年だし、この学校の面子もあるだろうから、うまくすればお咎めなしよ。でも、人を傷つけたり、殺したりしたら、きっと退学でもすまないわ! それこそ、あの子の人生は滅茶苦茶になってしまう! そんなことは、させたくないの。……実際言ってみると、やたらと勝手な言い草ね」

佑苑が、ふんと鼻を鳴らした。軽蔑しきった目で、未紀を見る。

「全くです。正直、あなたがこれほどのエゴイストとは思っていませんでしたよ。それだけのセリフを臆面もなく言えるとは、いや、たいしたものだ」
「君にしては、皮肉に洗練が足りないわね。でも、自分のタチの悪さは承知してるつもりよ。開き直ったエゴイストなんて、少なくとも友達にはなりたくないわね」

未紀は笑った。
乾いていて、寂しそうな笑いだと、有子は思った。
そして有子は、先日までの未紀の笑い方を、どうしても思い出せなくなっていた。
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