第5章 確かめる絆 取り戻せない絆
「他の場所に回りましょう。未紀先生、動いてなければいいけど……ん!?」

愛美の鼻が、ひくりと動いた。妙な匂いを捉えたのだ。

「どうなさいました? 愛美さま」

<正義>は何の匂いも感じていない。そう。その匂いは、愛美にのみ感じられるものだった。

超嗅覚。
愛美はそう呼んでいる。文字どおり、常人には捉えきれない微小な匂いでさえ知覚することのできる能力である。
いや、僅かな匂いばかりではない。愛美は、人間が抱く感情さえ、その嗅覚で感じ取ることができるのだ。今、愛美が嗅ぎ取った匂いは、まさしくその部類に入るものだった。

(怯え? 畏怖? 罪悪感? 何なの、この匂い?)

匂いの流れてくる方向を見ると、一人の少年が駆け去っていこうとするところだった。匂いの元は、彼に間違いない。

「君! 待って!」

愛美はそう叫んで地を蹴り、少年を追った。彼女の声に、少年が振り返る。怯えの色を浮かべていた少年の顔が、愛美を見た途端にさらなる恐怖に歪んだ。

「う、うわああっ!」

(何よ、失礼なっ!)

サングラスが、愛美の眼光を跳ね返してギラリと光る。
やはり恐い。逃走する少年への追撃速度が、さらに早まる。本当に恐い。
その時、後ろから<正義>の声が飛んだ。

「愛美さま!」
「何よっ!」
「彼です! お館様を拉致した三人のうち、一人です!」
「ええっ!?」

二人の会話を耳にして、少年の足が早まった。小さな体躯に似合わず、彼の足は相当に速い。愛美の足でも追い付けないのだ。

「駄目なのっ!?」
「愛美さま、私をお使いください!」

愛美に向かって手を伸ばす<正義>。愛美は<正義>の意図を素早く読み取り、その手を握る。

その直後、<正義>の姿が消えた。

いや、消えたのではない。<正義>は、愛美の手の中にすっぽりと収まっていたのだ。人ではなく、長さ十五センチ近くの戦闘用ダーツの姿となって。

(<正義>も結構、大胆ね)

愛美は、周囲を素早く見回した。幸い、彼女たち以外に人影はない。これ以上のチャンスは、おそらく、ない。
愛美は覚悟を決めた。

「頼むわよ、<正義>!」

愛美は大きく振りかぶり、逃走する少年の背中に向けて、おもいきりダーツを投げ付けた。鋭い切っ先にかすかな陽光を照り返しながら、ダーツは一直線に走る。

先端が少年の背中に突き刺さろうとしたその時、<正義>は再びその姿を変えた。

じゃらりっ。

ダーツは、黒光りする鎖分銅へと変化した。重い分銅が、少年の背中を強く打つ。

「うあっ!」

鈍く強烈な打撃に思わず声を漏らした少年の足に、鎖がぐるぐると巻き付いて自由を奪った。こうなってはどうしようもない。少年は顔面からアスファルトに突っ込むことになった。

「観念なさい。下郎!」

<正義>が本来の姿に戻り、少年を組み伏せた。
もはや少年に抵抗の余地はない。腕をねじり上げられ、悲痛な声を上げながら、ただもがくしかなかった。

「やったわね、<正義>!」

愛美が追い付いてきた。そして、組み伏せられた少年の顔を、意外そうに覗き込む。

「ねえ<正義>、本当にこの子が犯人なの?」
「はい。間違いありません」
「でも、まだ子供よ。小学生にそんな大それたことが……」

それを聞いた少年が、声を高めた。

「子供なんかじゃない! 僕は高等部の二年生だ!」
「……えっ!」

愛美は驚いたが、よく見てみれば、彼の襟元には高等部を示す校章が付いている。少年は声に屈辱をにじませながら、さらに言った。

「あなたまで、生徒会まで、僕を子供扱いするの? ひどいよ! 何をやっても子供のままだなんてっ!」

少年は、沖田聡は、顔を伏せて肩を震わせた。悔しかった。

愛美は困惑した。彼の言っている意味が分からないのだ。だが、このまま首を傾げているわけにはいかない。
生徒会本部に連絡するために、腕時計の文字盤を跳ね上げた。

「あれ? 何これ!」

愛美は目を見開いた。文字盤の下には、液晶のモニターが付いているのだが、そこには何も映っていなかったのだ。電源をオフにした覚えはない。いろいろボタンを押したり、ダイヤルを回したりしてみるが、全く反応がない。

「どういうこと? 壊れちゃったの?」

沖田の上着のポケットから、黒い乾電池のようなものが転がり落ちた。その端に付いていた赤いボタンは、しっかりと押し込まれていた。

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