第4章 死への歩み
ノアが言葉を引き継ぐ。

『このショタコニンXと呼ばれる薬品ですが、いまだ、その組成を解明することができません。解析は進めているのですが……』
「無論だ。私の英知の結晶が、そうそう簡単に暴けるはずが無かろう!」
それまで傍観していた八雲の一言に、役員たちは怒りのこもった視線を向け、その傲然とした表情を目にして、さらに憤りをつのらせた。

そして、一人が激発した。美咲だった。

「あなた……どうしてそんなこと言えるんです!? どうしてそんな顔してられるんです!? 元はと言えば、あなたが……!」

顔を怒りに紅潮させた美咲は、熱い涙をいっぱいに溜めた目で真っ正面から八雲を睨み付けた。しかし、八雲はその視線を真っ向から受け止め、跳ね返した。

「ショタコニンXを作った私に責任があるとでも言いたいのか? ふっ、愚劣な人間というものは、どこまでも救いがたいな」

八雲は、鼻先でせせら笑った。

「貴様は、自動車に跳ねられたら、それを造った自動車メーカーを非難するのか? 刀で斬られたら、それを鍛えた刀鍛冶を責めるのか? ふっ! 今度地震が起きた時、貴様がどこに文句を持っていくか、見ものだな!」

八雲の台詞は、詭弁の類に入るものだった。しかし、美咲はそれ以上言葉を紡ぐことができず、瞳を覆う涙の層を厚くしながら、それでも八雲を見据え続けた。
そして、涙が落ちるその瞬間。

「いけないな。女の子の涙は美しいものだけれど、それが怒りによって押し出されたものでは、せっかくの宝石が濁ってしまうよ」

その澄んだ声は、入り口の方から響いてきた。全員の目が、そこに吸い付けられる。

「叶か!」

そこにいたのは、購買委員長、叶圭一郎だった。叶は自動ドア近くの壁に背中を預け、顔にかかる前髪を、静かに掻き揚げる。

「叶くん。今日は定期検診だったんじゃなかったんですか?」

そう尋ねる佑苑に、叶は涼風のような、しかしはかない笑顔を向けた。

「もう終わったよ。それに、今日は体調がいいんだ……」

叶は、風に揺れる落ち葉のように壁から離れ、腕時計の文字盤を閉じながら、ゆっくりと美咲の前に歩み寄った。

「さっきの話は、ノアを中継して聞かせてもらったよ。君の気持ちは、僕にも分かるつもりだ。自分の大切なものが危地にある時、平静でいられる人間は、そうはいないものだからね。……でも、今は人を責めることよりも、他にすべきことがあるんじゃないかな? 薔薇園が毛虫に荒らされた時は、それを産んだ蛾を殺すより、毛虫を取ったほうがいいはずだよ」

叶の妙な比喩を、愛美は正確に読み取った。

「鬼堂くんを子供に戻した犯人を、さっさと探せってわけね。たしかに、ここでドクトルKをひっぱたいてるよりは、その方が建設的だわ」

素早くノアに向き直り、いくつかの指示を飛ばしていく愛美。叶はその姿を見て安心したかのように小さな笑顔を作り、傍らの美咲の肩に手を置いた。突然のことに驚き、ハッと身を固くする美咲。その反応に叶は苦笑し、続いてにっこりと微笑みながら言った。

「鬼堂くんはICUだね?」
「え、あ、はい」
「それじゃあ、君はICUで鬼堂くんに付いていてあげてくれないか」

美咲は一瞬の間に、意外さと喜びの表情を順番に並べ、最後に上目遣いで叶の顔を見た。

「……でも、私も皆さんに協力を……」
「申し出はありがたいけれど、ここからは僕たちの仕事なんだ。君には、君にしかできないことをして欲しい。……鬼堂くんは、あの小さな身体に、いろんな病気を抱え込んでたった一人だからね。きっと、寂しいんじゃないかな」

二呼吸分の沈黙の後、美咲は消え入るような声で言った。

「……いいんですか……?」

返答は、頷きで返された。
……恐る恐るといった様子でICUに入っていく美咲の後ろ姿を遠く眺めながら、叶とゆかりは少しだけ呆れたような笑いを浮かべて、顔を見合わせた。

「案外、素直になれないのね、美咲ちゃん。本当は、すぐにでも信吾くんの所に行きたかったはずなのに」
「やせ我慢なんて、する必要ないのに。でも、それが奥ゆかしさってやつなのかな。……いや、それとも、彼女にも不安があるのかな」
「どういうこと?」
「……いや、大したことじゃないんだ。気にしないでいいよ。……さて、頭を切り替えようか。僕らには、僕らの仕事が残ってるからね」

風を受けた柳の枝のように幽玄に身をひるがえした叶を、ゆかりはどこか釈然としない顔で見やったが、すぐ彼に続いてノアの元に向かった。
叶の言うとおり、自分たちには、やらなければならないことが残っている。そして、どうあっても失敗は許されないのだ。

「しかし、この緊急時に天草は何をしてるんだ?」

宗祇が、苛立たしげに細かく床を蹴った。
授業後、情報収集のために学内に散った生徒会役員のうち、まだ龍之介が帰ってこないのだ。召集の信号は送られているのだが……。

「そう思って、さっきから通信を繋げようとしてるんですが……」

腕時計が内蔵する通信機を操作しながら言った佑苑の声にもまた、苛立ちの粒子がまとわり付いていた。

「繋がらないのか?」
「ええ。何度もコールしてるんですが、さっぱり。電源が切られているわけではなさそうなんですが……」

不審に思った宗祇は、ノアに龍之介の所在を尋ねた。
ノアはメインモニターの左端に小さなウィンドウを開き、学園の地図を表示する。その中に、高等部の校舎裏に明滅する光点があった。龍之介のピアスに仕込まれた発信機の反応である。

「……こんな所で何をしてるんだ、あいつは?」
『この発信は、五十二分前から静止したままです』

それを聞いて、佑苑は通信を送り続けていた腕時計の文字盤を閉じ、皆に背を向けて足早に歩きだした。

「佑苑、あれをどう見る?」

宗祇の声は、出口に向かう佑苑のすぐ隣から聞こえてきた。佑苑は顔を向けないまま答える。

「天草くんが、鬼堂くんのために働くのが嫌でサボっているというのは充分に考えられます。しかし、校舎裏で一時間近くというのは少々不自然ですし、通信が繋がらないのも妙です。何かあったと見るのが妥当でしょう」
「俺も付き合おう」

佑苑は、正面を見たままで返した。

「誰も、様子を見に行くだなんて言ってませんよ?」
「行かないつもりか?」
「誰も、そんなこと言ってませんよ」

佑苑は足を早め、自動ドアをくぐった。宗祇は目の端にごくわずかの笑みをにじませ、そのままの歩調で佑苑の後を追った。
……二人が出ていくのを、有子はどこか不思議そうに眺めていた。その表情を覗き込んだのは、愛美である。

「どうしたの、有ちゃん?」
「あ、いえ、その……宗祇くんと佑苑先輩、普段はそんなに仲がいいって感じしなかったから、ちょっと珍しいかな、って……」
「そうね。でも、案外いいコンビかもしれないわよ、あの二人」
「そうなんですか? ……男の人って、あんまりよく分からないです」
「いくら秀才の有ちゃんでも、こればっかりは経験の問題だもんね」

愛美は有子に上目遣いに睨まれ、いたずらっぽく笑った。視線を自動ドアの方に戻した有子は、一つ一つ、押し出すように言葉を紡いだ。

「でも、でも、これだけは分かるんです。……あの二人、今、すごく怒ってます。鬼堂先輩と、天草先輩に危害を加えた人に。これだけは、心を読むなんてことしなくたって、分かるんです」
「それは、有ちゃんもでしょ?」

有子は、真剣な顔でうなずいた。

「はい。私も、みんなと同じです」
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