3.月光に消えて
克巳は右手の手袋をゆっくりと外した。やがて、その手が青白い炎を纏い出す。朱凰克巳の能力。彼は超高熱の炎を自在に操る。美術館で使用をためらったのも頷ける。
「僕の炎なら、あなたは一瞬で消えるはずです……でも」
<――構いません>
『朧月夜』は克巳の迷いすら断ち切るように、力強く言った。
<私がどれだけ愛しても、あの人は戻ってこない……でも、私は絵だから……人ではないから、彼を忘れて別の誰かを愛することはできないの>
永遠に、永久に、ずっと変わらない想い。それは幸せなようにも思える。しかし結局、『朧月夜』を縛っているのは、その「永遠」という名の牢獄なのだ。
<お願い……私を消して。せめて、あの人と似ているあなたの手で……>
「……分かりました」
克巳の声はかすれ、ほとんど聞き取ることができない。だが、彼の炎が大きくなったことが、その意志を表していた。
「――駄目っ! 克巳くん!」
慈は思わず叫び、駆け出していた。
「慈さん!?」
<どうして、ここへ……>
克巳と『朧月夜』の声が重なる。慈は構わず、克巳の両腕を掴んだ。慌てて克巳が右手の炎を消す。
「彼女を消すなんて……可哀想です!!」
「慈さん……」
「私だって、分かります。あの人がどんなに苦しいか。でも……!」
泣きそうになりながら、慈は叫んだ。どうしてここまで肩入れしてしまうか、彼女にもよく分からない。
――「さようなら」――
――どれだけ愛しても、戻ってこない――
――背を向けて、去っていく――
――別の誰かを愛することはできない――
ああ、そうなんだ。
慈はほんの少しだけ、自分がここへ来れた理由を悟った。
――私は、『朧月夜』を……。
「克巳くん……私……」
克巳はしばらく黙っていたが、慈が落ち着くと、そっと肩に手を置いた。
「僕だって、同じ気持ちです。こんなことはしたくない……でもね、慈さん。あの人の苦しみはあの人にしか分からない」
『朧月夜』は慈に向けて、小さく微笑んだ。
「僕は手助けしてあげたいんだ」
「……手助け?」
「そう」
と言って、天を見上げる。
「あの月へ昇る、手伝いだよ。僕らができることはそれだけ……けど、僕らにしかできないことさ。」
慈も分かっていた。答えは一つしかなかったから。でも、それでも……。
静かに泣き出した慈を、克巳は抱き寄せる。その暖かさが、慈の涙腺をさらに緩めてしまいそうだった。
「――いきます」
再び、克巳の手に炎が宿った。その手を横へ振ると、揺らめく炎が『朧月夜』を包み込んだ。
彼女の全身が、青白く輝く。しかし、苦痛はないようだった。むしろいやされている時に似た、満ち足りた笑みがある。
<ありがとう……>
「出逢えるといいですね……彼と」
<あの人、待っていてくれるかしら?>
「待ってますよ、必ずね」
話している間にも、彼女の身体は少しずつ消えていった。
チリィィン……チリィィン……。
鈴の音が、響き渡る。
<あの人……私を描くときには必ず鈴を身につけていたの……この音色も、消えてしまうのね……>
『朧月夜』は悲しげな色を瞳に映したが、すぐに頭を振った。
<駄目ね……自分から選んだのに>
そして、慈を見つめた。あの時とは違う、優しい瞳だ。
<私のために泣いてくれて、ありがとう>
「私……私は忘れません。あなたのことを……」
「ひどいな、僕だって忘れないよ」
克巳が子供のような拗ねた口調で言い、慈と『朧月夜』は笑みを浮かべた。
<ありがとう……克巳さん、慈さん。本当に……出逢えてよかった……>
そして。
一陣の風が桜の花びらと共に、『朧月夜』だった光の粒を天へと運んでいった。
皓々と照る月の元へ、静かに……。
「……夢のような体験だったね」
「はい」
克巳の隣で、慈が軽く頷いた。
「それにしても、一つ分からないことがあるんだよなあ」
大げさに腕を組む克巳。
「何ですか?」
「慈さんが、絵の中に入っていたこと。あの時の『朧月夜』の様子だと、僕だけ連れてきたつもりだったらしいし」
「それなんですけど……」
少し頬を赤く染めながら、慈が口を開いた。
「私、考えてみると……あの人と自分を重ねていた気がします」
「重ねて?」
克巳が軽く首を傾げた。
「心のどこかで不安だったんです……この幸せはずっと続かないんじゃないか、いつか会長が離れていくんじゃないかって……」
あの時、気を失っていた間に見た夢。
克巳が離れていく、あの夢。
そこまで言うと、慈は恥ずかしそうに顔を伏せた。
「だから、何となくあの人の気持ちに同調したんだと思います。永遠に愛していたくて、でも、どこか怖くて……変ですよね?」
「全然、変じゃないよ。誰だってそう思うんじゃないかな」
「じゃあ、会長は……どう思っているんですか?」
「――先のことは考えないよ。今、僕に分かることを精一杯やるだけ」
今度は慈が首を傾げた。
「今、分かること?」
「慈さんが大好きってこと」
そういうと、克巳は慈の身体を引き寄せ、唇を優しく重ねた。
そして。
「――ね? 不安なんか消えるだろう?」
「もう……克巳くんったら」
慈は苦笑しつつ、そのまま身体を彼に預けた。この幸せは、ずっと続いていく――いや、続かせていきたいと願いながら。
「朧月夜」。
この名画は、蒼明美術館に今尚展示されている。ただ、今回の事件が起こる前にこの絵を見た人は、今の絵に少し違和感を感じるかもしれない。
だが、その違和感の真実に気がつくことはないだろう。
絵の中の女性が、ほんの少し微笑んでいるその理由に。
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