2.大樹の下で
慈は泣いていた。
なぜ涙が出てくるのか分からない。けれど、彼女は泣いていた。
不意に克巳が彼女の前に現れた。彼は今まで見たことのない、絶望した瞳で慈を眺めている。

――克巳くん?

声をかけてみる。だが彼は聞こえていないのか、くるりと背を向けると、足早に去っていく。
ただ、一言だけ。

「さようなら」

――克巳くん! どこへ行くの?

何度も、何度も叫ぶうちに声が大きくなっていった。しかしそれでも、慈の言葉は届かない。克巳の姿はどんどん小さくなっていく。

どんどん、どんどん――。

「克巳くん――!!」

気がつくと、慈は地面に倒れ伏していた。
冷たい土の感触が、心地よくもある。

「私……。」

靄がかかったような脳裏に、克巳の笑顔が急に思い出された。
そして、彼が消えていくあの夢も。

「……ここは?」

慈はあわてて跳ね起きた。さっきまで自分は美術館にいたはずだ――土の存在が、彼女の意識をようやくはっきりとさせる。
周囲には何もなかった。ただ地面だけが続いている。後はすべて薄闇に包まれていた。辛うじて夜目が利くのは、天に浮かぶ月のお陰だ。綺麗な真円を描いて――。

「おかしいわ……今日は半月だったはず。それに、雲一つないなんて……。」

不気味なほど冴々とした月明かりに、慈は眉をひそめる。奇妙な静けさが、胸に巣くった不安を増すようだ。

 チリィィン……チリィィン……。

「鈴の音!」

ほんのかすかな音だったが、間違いない。

「『朧月夜』の鈴の音……克巳くんもそこにいるはずだわ」

意識を失う前の光景を思い出す。それは同時に悔しさを慈の心へ与えた。

――助けたい……あの人を。

人を想うことを、誰よりも強く教えてくれた大切な人だから。

慈は耳を澄ませて、遠くから響く音色を辿り始めた。

『朧月夜』が目覚めたのは、いつ頃のことなのか、『彼女』自身も覚えていない。
ただ、目覚めた時にいたのは、『彼』だけだった。『彼』しかいなかった。
『彼』は『朧月夜』を愛していた。その想いは伝わってきた。だから『彼女』も、少しずつ彼に惹かれていった。
不安は一つだけ――『彼』が時折悲しそうな目をしていたこと。
だが、そんな不安もいつしか消えていった。『彼』を、『彼』だけを愛していればそれでいい――そう思っていたから。
そして……別れの時が来た。『彼』は言ったのだ。

「もう、会えなくなる」――と。

それ以来、『彼』の姿を見たことはなかった。『彼女』も心を閉ざし、眠り続けた。

けれど。

『彼女』は現れたのだ。もう一度、『彼』と出逢うために。
そして、願いを果たすために。

「あなたは……分かっているんじゃないんですか?」

 <何を……?>

悲しみに満ちた瞳の『朧月夜』に、克巳が言った。

「自分が絵だということを……その想いが報われないものだということも」

 <ええ……知っているわ>

心なしか彼女の語調にも変化があった。最初の時に見えた冷たさがない。克巳を手に入れた満足からくるものなのか、それとも、別の理由か。
克巳はその秀麗な顔を曇らせた。

「では、なぜ……? 僕が別人だということも、あなたは分かっていた。それなのに」

『朧月夜』がすっと首を動かし、天に浮かぶ月を見つめた。

 <見て……美しい満月。でも、決して変わらないの。いつまでも私を照らし続けるのよ……あの月は>

彼女の瞳から、すっと涙がこぼれた。

 <眠れないの……あの月が輝く限り、私はずっと見つめていなければならないわ、そして、あの人のことを想うの>

桜の樹に背を預け、天へ視線を飛ばす姿は絵の通りだった――ただ、彼女が涙を流していることを除いて。

 <私は……>

その時、克巳が『朧月夜』の頬に手を差し伸べ、涙を拭おうとした。しかし、彼の指は何も触れることはない。
『朧月夜』はうつむいた。

 <私は絵の中の女……所詮、幻なのよ>

「それでも構いませんよ」

 <……?>

不思議そうな顔をする『朧月夜』に、克巳は笑ってみせた。

「たとえ、あなたの涙が幻だとしても、そこに込められた思いは本物です。それで十分じゃないですか」

克巳の手が『朧月夜』に重ねられる。

「ほんのわずかな間だけでも、僕が傍にいましょう……こんな若輩者では、あなたの相手に不釣り合いかもしれませんが」

涙は拭いきれていなかった、彼女の表情に本当の笑顔が浮かんでいた。

 <ありがとう……>

慈はその光景を目にした瞬間、少し――いや、かなり誤解していた。

――克巳くんったら……!

鈴の音が途中で途絶えたせいで、ひどく迷ってしまったのだ。さらにここには目印となるようなものもない。
辿り着けたのが奇跡だと思えたくらいだ。

それなのに……。

克巳と『朧月夜』は親しげに話している。特に『朧月夜』は別人かと勘違いするくらい表情が明るくなっている。

「もう……」

彼が無事でよかったと思う反面、ひどく腹立たしい気持ちが込み上げてきた。

「どれだけ私が心配したか、分かってないのでしょうけど」

<あの時、あなたと一緒にいた人……素敵な子だったわ>

『朧月夜』が自分のことを言ったので、慈は思わず聞き耳を立てた。

<あなたのことを想っている目……羨ましいくらいに純粋な瞳だった>

慈は赤くなった。

<克巳さん……あの子のこと、好きなのでしょう?>

「え? あ、それは、まあ……」

克巳が曖昧な返事をする。

<あの子とも話してみたかった……もう無理なことだけれど>

――どういうこと?

慈が不審に思っていると、克巳が笑みを消して『朧月夜』から離れた。
『朧月夜』もまた、悲しそうな表情に戻っている。

「……本当に、いいんですか?」

<ええ>

ためらいがちな克巳の問いに、『朧月夜』は迷いなく答えた。

<私を……消してください>

慈は立ち尽くし、二人を茫然と見ているしかなかった。
そして、ようやく気がついた。
悲しそうな瞳、それでいて何かに絶望した表情……。

彼女が最初から死を望んでいたことを。
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