1.桜、舞う刻
とある秋の日、蒼明学園はたった一つの噂で持ちきりになっていた。

朱凰財閥が、その莫大な私財を投じた日本最大の学園都市は、何かと騒動が起こることで有名である。生徒主体で進められる学園経営がそれに拍車を掛け、なおかつ気楽に容認されてしまうのだが。

元々、世界中から天才奇才を集めているのだから、変わったことの1つや2つや、1203つくらい、起こっても無理はない。

そんな蒼明学園で、生徒たちの心を捕らえて話さない噂とは――。

「……つくづく事件と関わりのある場所だね、ここも」

高等部生徒会長・朱凰克巳は苦笑混じりの言葉を呟きながら、周囲の絵画に視線を移した。
眉目秀麗と呼ぶにふさわしい容貌は、1つの芸術品と言ってもよかった。そしてそれは、決して周りに負けていない。

蒼明美術館。文化施設が集中する北地区の代表的な建物である。各時代の有名な絵画や彫刻だけでなく、世に知られていない芸術家や新人の作品も数多く展示されている。また、美術部が個展会場として使用することもある。
彼がいるのは、いわゆる無名画家の作品が展示されているスペースだ。

「確か他にも妙な噂があったような……そうそう、涙を流す宇宙人の彫像だっけ」
「会長、もう少し真剣に調査して下さい。館長に無理を言って、こんな夜遅くまでお邪魔させてもらっているんですから」

澄んだ声で克巳をたしなめたのは、一人の少女だった。
艶やかな黒髪、透き通るような白い肌。何より完璧に整った美貌。
上瀧慈。
高等部生徒会で書記を務め、克巳の恋人と公然に噂される少女である。とはいえ、彼女の容貌や雰囲気は少女の域を越え、大人の女性を感じさせた。

「ああ、分かってるよ」

悪戯が見つかったときの子供のように、克巳は首をすくめてみせた。こうした仕草だけで完璧な芸術品もひどく可愛く見えてしまうのだから不思議である。
思わず慈も笑顔を浮かべるが、すぐに表情を改める。今は仕事中だ。

――たとえ、その仕事が幽霊騒ぎの真相を確かめるためであっても。

さすが「生徒会(唯一)の良心」と呼ばれるだけのことはある。
真剣な顔に戻った慈は、そのままある一枚の絵の方へ目をやった。
そして、つい感嘆のため息をついてしまう。

「綺麗……」

月夜の中、散りゆく桜の樹の下で佇む美しい女性。風邪に揺れる髪に手をあて、憂いを含んだ瞳を遠くへ向けている。
慈の前に飾られた絵――題は「朧月夜」。
名声を得る前に亡くなった画家・城ヶ根大河(しろがね・たいが)の作品である。この美術館に寄贈されたことがきっかけとなり、美術界で再評価を受け始めていた。

しかし今、この絵が蒼明学園の噂の原因になっていることなど、事情を知らない人間が聞いても信用しないだろう。
ましてや、絵の女性が夜な夜な美術館に出没しているとは――。

「美しいですね……」
「――えっ」

その声が耳元で発せられたので、慈は少し驚いた。絵に見惚れていて、克巳が傍に来ているとは思わなかった。
その彼も、感動を湛えた瞳で「朧月夜」を見つめていた。慈の動揺には気がついていないらしい。

「想いを内に秘めた女性を、ここまで完璧に描くとは……城ヶ根大河は女性心理によほど詳しい人だったのか、それとも……」
「それとも?」
「――いや、何でもないよ。」

克巳は照れた風に笑う。
逆にそのことが気になり、慈はもう一度問い質そうとした。
だが、その時。

 チリィィィン……。

「鈴の音?」
「……まさか、こんなに早く」

 チリィィン……チリィィィン……。

明かりが不自然に瞬きだし、徐々に前までの光を失っていく。
深夜の美術館に現れる美女の亡霊。
それは、鈴の音と共に現れる。

「しかし、これは早すぎますね……ここで待っていれば、向こうから来るとは思っていましたが……」

克巳は二度目の苦笑を浮かべるが、目は笑っていない。油断なく周囲を見渡している。
人の気配はない――おそらくこの美術館には二人と警備員だけのはずだ。その警備員にもできるだけ近づかないように言ってある。
だとすると――。

 チリィン……チリィィン……チリィィン。

「――慈さん!」
「後ろ!?」

不意に現れた気配が、二人を振り向かせた。
だが、わずかに遅い。

 <逢いに来てくれたのね?>

絵の中にいたはずの女性は、克巳に向けて妖艶な笑みを見せる。

 チリィィィン……チリィィィン……。

美術館の美女。
その亡霊の名は、描かれた絵と同じ。

「『朧月夜』……!」

慈は息を呑んだ。
彼女の姿は透き通ってこそいないが、不安定に揺れていた。
水面に映る月のように。

 <貴方ともう一度……逢いたかった>
「残念ですが、あなたは人違いをしていますよ。僕は朱凰克巳――あなたが逢いたいという方とは、別人です。」

害を与えるために『朧月夜』が現れたのではないと踏んで、克巳は静かに諭す風に告げた。
女性の瞳がすっと細められる。
見つめられたのは――慈。

「――!」

慈の全身に寒気が襲った。『朧月夜』の瞳からは感情が抜け落ちていた。克巳と話していたときとは、まるで違う。

 <美しい人……貴方の想い人なのね>

『朧月夜』の声に含まれた憧れとも嫉妬ともつかないものから守るように、克巳が慈の前に立った。

「彼女に指一本でも触れたら……僕も本気を出させてもらいますよ、『朧月夜』」
 <そう……>

『朧月夜』が冷たい笑みを浮かべたのを、慈は見た。

――悲しい目……でも……。

慈の心に、何かが引っ掛かかった。

 チリィィン……チリィィン……。

再び鈴の音が響きだした。
ほとんど同時に、3人の周囲を小さな何かが漂い始める。
そして、かすかな香り。

「……桜の花びら?」

慈は『朧月夜』の次の行動が読めず、手を出せなかった。

――彼女は、何をしようとしているの?

表情こそ見えないが、克巳も同じ考えらしい。二人の<能力>なら花びらくらい切り払えるが、少々強力すぎるのが欠点だ。
特に克巳の場合、美術館に余計な被害を出してしまいかねない。それは生徒会としても、個人的にも望むところではない。

――大切な作品だもの。傷つけるわけにはいかないわ……。

慈は素早く判断し、隠し持っている自分の「武器」に手を触れた。克巳をサポートするのが自分の役目だ。
刹那、慈が右手を振るった。しかし、その速さは尋常ではない。肉眼で捕らえ切れたのは、彼女と克巳だけ。
花びらが細かく分断され、ほとんど粒子となって消えていく。

「……お見事」

慈の「武器」――恐ろしい切れ味を持つ鋼線――の舞いに、克巳が軽く手を叩いた。
しかし。

――え……何? 手が……。

鋼線の手触りがおかしい。と言うより、触っているという感覚がない。
まるで――。

「いけない! 会長、この花びらは……!」

動こうとした慈だが、その途端、がくりと膝をついた。
力が、入らない。

「慈さん! 『朧月夜』、あなたは何を……っ!」

詰問しようとした克巳もまた、足元をふらつかせた。
桜の花びらが運ぶ香りが、二人の身体を縛りつけていた。全身の感覚が少しずつ奪われていくようだ。
『朧月夜』は微笑むと、音もなく克巳の元へ歩み寄った。

 <さあ、行きましょう……貴方が私にくれた、ただ一つの場所へ>

「か、克巳……くん」

 チリィィィン……チリィィィン……。

目の前が暗くなっていく。
何も分からなくなっていく。

――もう、駄目……なの?

動けなくなった克巳を、『朧月夜』の衣が包み込むように広がった。

 <やっと……逢えた……私を――>

「待って、あなたは……」

 チリィィン……チリィィン。

やがて、慈の意識は深い闇の奥へと沈み込んでいった。
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