プロローグ
チリィィン……チリリィィィン……。
誰もいないはずのその場所で、鈴の音が鳴り響いた。
すでに夜の帳に包まれ、静寂が支配する時間。それを壊すほど大きな音ではない。むしろ、夜というものが潜在的に人へ抱かせる恐怖感を、いや増しているようでもある。
チリィィン……チリィィ、チリィィィン。
誰かを誘うかのごとく、鈴は鳴り続ける。
<――何処へ……>
かすかな声が闇の中で流れた。
<あの人は……何処へ? 私を置いて何処へ行ってしまったの?>
女性だ。
儚げで、切なさを秘めた女性の言葉。
だが、何故ここ――美術館にいるのか?
深夜には入る事などできないはずなのに。
チリィィィン……チリィィィン……。
<ずっと……ずっと、待っていたのに……無駄なの? 私のやっていることは>
声の主である女性の姿は、どこにも見えない。完全に闇の中へ溶け込んでいる。
<逢いたい……もう一度、あの人と>
しかし女の声には、そのことを現実にしたいという強さが感じられない。どこか、諦めに近いものがある。
その時。
かすかに差し込んだ月明かりが、1枚の絵を照らし出した。
チリィィィィィン……。
<ああ……>
歓喜の声が漏れ出る。
<ここに……ここにいたなんて……私と出逢うため? それとも……>
月光に照らされた絵には、静かに微笑む少年の姿が描かれていた。美貌と言って差し支えない顔立ちも、深い優しさに満ちた瞳も、記憶の中のものと間違いない。
<私は待っていたのかもしれない>
その絵に触れようとして、しかし自分にはそれができないことを思い出し、女は一粒の涙をこぼした。
<……遠い時の果てで、あなたと出逢い、そして……私を――>
チリィィン……チリィィン……。
<……貴方が…・私を……>
女の声が闇へと流れ去った頃。
月明かりも消え、その場は再び闇と静寂のものとなっていた。
数時間後、見回りをする警備員が少年の絵の前に立った時、手にした懐中電灯が絵の題名を照らし出した。
「卒業記念 憧れの生徒会長(年下)」
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