第7章:ALICE
〜すべては、ありし日のように〜
瞬間、龍之介の双眸が妖しい輝きを放った。まるで何もかもを吸い込んでしまうかのような、赤い光。
それを見た途端、『帽子屋』の膝が、がくんと崩れ落ちる。

「ガッ……ハァッ……!」

龍之介の能力は、"サイキック・バンパイア"と称される代物だ。生命力や感情、果ては夢なんてものまで吸い取ることができる。彼の場合、相手と視線を合わせなければ使えない。古くからの伝承にある、"邪眼"の使い手なのだ。

「グウッ……ガアアッ!」

目が霞む。体力が急激なスピードで失われ、格段に動きが鈍る。『ありす』に向けて差し伸べた手が、恐ろしく重い。

しかし、『帽子屋』は倒れなかった。彼は既に執念などという単純な代物で身体を支えているわけではないのだ。
だとしたら、何なのか。『帽子屋』をここまで突き動かす源は。

「――淋しいのね、あなたは」

愛美が前へ出る。血走った眼差しを真正面から向けられながら、それでもなお彼女は瞳を逸らそうとはしなかった。

――ナゼダ?

『帽子屋』は激しい嫉妬すら感じ、愛美を睨みつけた。

――ナゼ、コイツハ……コイツハ、ナニモカモワカッタヨウナメデ、オレヲミル!?

「ナゼダ!!!」
「似ているからよ――昔の私と」

サングラスを外し、愛美は少し吊り上がった瞳をあらわにする。苦笑めいた輝きの裏側には、限りない哀れみが宿っていた。

「でも、あなたは間違ったわ。淋しさに負けた。孤独であることを免罪符に、何人もの人を傷つけた……それはあなた1人の責任ではないけれど、償わなければならないことよ――あなた自身の想いをもって」
「ソレイジョウ……ソレイジョウ、イウナッッ!!」

『帽子屋』は恐怖していた。
愛美が彼と同じ悲しみの中にありながら、微笑むことができるから。自分にはない強さを目の当たりにしてしまったから。

「オマエ……オマエハ……! イッタイ……!?」
「私の名前を忘れたの? 私は蒼明学園高等部選挙管理委員長、江島愛美――今度会う時までに、心へ刻んでおきなさい」

静かに告げた瞬間、手にしていた扇子が唸りを上げた。今まで使っていたものとは違い、これは鉄製だ。白河静音のお陰で、かなりの軽量化がなされている。閉じたままで使えば警棒のように扱えるし、開いて使えば縁の部分で相手を切り裂くことも、盾として使うことも可能だ。
そして、開いた状態から投げることも。

ひゅんっ!

扇子が風を切り裂いて『帽子屋』へ迫る。しかし、並みの人間相手ならば命中していただろうが、この怪人相手には通用しない。

「ナ……ナメルナアッ!」

『帽子屋』は扇子の軌道を完全に見切り、避けようとする。その彼の視界に、鬼堂信吾の姿が入ってきた。

――ソウカ。

生徒会メンバーの意図を察し、にやりと口元を歪める『帽子屋』。彼らの本命は、あくまで最大の戦闘力を持つ信吾だ。扇子は『帽子屋』の動きを封じるためのフェイント。

――ナラバ、リヨウシテヤルサ。

フェイントだと分かっている攻撃など、怖くはない。最小限の動きで避け、信吾を迎え撃つ。彼さえ倒せば、実力的に『帽子屋』と匹敵する者はいないのだから。

「――!!」

見切った。
扇子が『帽子屋』の頭上を飛んでいく。しかも、体勢は崩れていない。

――カッタ!

遠のいた勝利が確実に近づいたと『帽子屋』は思い、嘲笑う。そのまま、信吾へ向けてシルクハットを投げつけた。

「コレデ、オワリダッ!!」

だが。

「!?」
「――そう、これで終わりよ」

強力な切れ味を持つシルクハットが、信吾の首元から――逸れた。完全に軌道が狂い、スピードさえもかつてと比べるべくもない。
力を失い、シルクハットは地面に落下する。まるで、生命が消え落ちるように。

「ナッ――!?」
「鬼神一刀流・壱乃奥義――」

――シマッタ!!!

動揺が『帽子屋』の身体を硬直させる。間合いは既に信吾のものだ。もう、逃げられない――先程までの勝利の予感が嘘のように、敗北感が全身を冷たく凍りつかせた。

「――疾風迅雷!!!!!」

信吾の叫びと共に、木刀が一閃する。目にも止まらぬフェイントから、頭上へなだれ落ちていくかのような一撃。本来なら二動作必要な行動を、信吾は一息でやってみせた。
これが鬼神一刀流後継者の、真の実力。
稲妻のごとき衝撃が、『帽子屋』の身体を走り抜ける。

……そして、恐るべき怪人は静かに崩れ落ちた。



「『帽子屋』……お前は俺たちの強さを見誤ったな」

倒れ伏した『帽子屋』に、信吾が驚くほど優しい声色で語りかける。

「江島くんの扇子はフェイントではない。あれは、布石だ」
「布石……?」
「――これだ」

信吾の手にはいつの間にか、シルクハットが握られていた。それが『帽子屋』の眼前にゆっくりと置かれる。

「……?」

何の変哲もないシルクハットだ。『帽子屋』は信吾の意図が掴めず、眉をひそめた。

「よく見ろ……ここだ」
「!」

『帽子屋』は息を飲んだ。そこには、目立たないほどの大きさの傷があった。何か鋭い刃物で切り裂かれた跡……。

「そう……江島くんの扇子によるものだ」
「あなたならきっと最小限の動きで避けると思ったわ、『帽子屋』」

ごく自然に、愛美が口を挟む。

「だから私は、そのシルクハットを狙ったの。鬼堂くんの攻撃をフォローするために」
「そうか……そのせいで、あの攻撃が当たらなかったのか」

もはや、『帽子屋』の声から狂気は消え失せていた。
同時に生気すらも失われていたが。

「しかしまあ、その程度の傷でよく軌道が逸れたよなあ」

龍之介がどこか感心したかのように呟く。

「下手すりゃ、何の意味もないってこともあったわけだろ?」
「そうね」

あっさり、愛美が答える。

「でも、それはないと思ったわ――私が投げたんだから」
「へいへい」

完全に降参といった感じで、龍之介は両手を上げた。愛美のこういった根拠のない自信には頭が下がる。しかも彼女の場合、それを実現させてしまうのだから。

「――そうか……そういうことか」
「?」

『帽子屋』のどこか清々しいとさえ思える声に、有子は首を傾げた。

「……お前たちは互いを信頼している……それがお前たちの強さ……」
「そんな格好のいいものじゃないわ」

愛美が小さく笑ってみせる。

「私たちだって、完璧じゃないんだから。けど……だからこそ、私たちは一緒にいるのかもしれない」

互いにないものを支えあうために。信じあうために。

でも、と愛美はその言葉を飲み込んだ。

本当は、もっと単純なこと。
みんなが好きだから、一緒にいる。みんなが好きだから、信じられる。

つまりは、そういう簡単なことなのだ。

「『帽子屋』さん……帰ってきて」

有子が『帽子屋』の傍へ寄り添い、不思議と大人びた口調で言った。その表情は、限りなく優しい。
そっと、手を伸ばした。

「あなたは独りじゃない……『チェシャ猫』さんも『女王』さんも『ジャバウォック』さんも……みんな、あなたを待ってるから……」

彼女の温もりが伝わってくる。
『帽子屋』は、初めて本当の意味で、微笑みを浮かべてみせた。

「君も……? 君も待っていてくれるか……?」
「うん……。だって、あなたは私だから……ずうっと、待ってる」
「……そう……か……」

安堵したように息をつき、有子の手をそっと握り返しながら――。
『帽子屋』は穏やかな表情で、空気の中へ溶けていった。

「さよなら……また、会おうね」

涙は流さなかった。
悲しかったけれど、『帽子屋』たちは再び生まれてくるだろう。それなら、泣いてなんていられない。今度こそ淋しい想いをさせないためにも、強くならないと。

だから、有子は笑顔を生徒会メンバーに向けた。

「ありがとうございました、先輩」
「……よく頑張ったわね、有ちゃん」

愛美のねぎらいの言葉に、しかし有子はきょとんとした顔を見せた。

「ある、ちゃん……?」
「そ。私が考えたのよ。ただ名前で呼ぶのも芸がないし、『ありす』も今更だもの」
「……で、有ちゃんってわけか」

龍之介が苦笑する。いつ愛称を考えていたのだろう、なんて疑問は言わない。どんな答えが返ってくるか分からないし、何より機嫌を損ねるのがもっと怖い。

――答えじゃなくて、扇子が飛んでくる可能性もあるしなー……。

「気に入らない?」
「いーえ、とんでもない♪ じゃあ有ちゃん、愛称決定祝いっつーことで、俺とデートしない?」

真面目な場面が終わるとすぐこれである。

「え……あ、あの、困ります〜」
「ふふっ、照れてるんだね。君のそういうところ……好きだな」
「天草ぁ!! 貴様という奴は……恥を知れ!!」
「……まったく、しょうのない連中ね」

恒例の鬼ごっこを始めた信吾と龍之介を冷たい視線で眺めながら、愛美はため息をついた。もはや止めようという気すら起きないようだ。
まあ、当然かもしれない。

「いいんですか、あのままで?」
「疲れたら終わりにするでしょ。こっちまで付き合う義理はないわ」
「はあ……」

有子は何とも言えない目で、2人を見つめた。

「――忘れてたんだけど」
「はい?」
「ここから出る方法、あるのかしら?私たち、その辺を全然考えてなかったのよ」

……おいおい。

だが、有子は笑顔で応えてみせた。

「大丈夫です……信じてますから」
「……来るの?」

誰を、などとは聞かなかった。そんなことは言われなくても分かる。この場にいない人物の中で、彼女がそこまで信頼を寄せる相手はおそらく1人しかいない。

「はい。ここにはお兄……じゃなくて、和泉先輩の心が残ってます。だから、私でも何とか言葉を伝えられたと思います」
「あなた……和泉くんと同じ、テレパシストなのね」
「……はい」

ためらいなく、有子は頷いてみせた。

「もしかしたら、この力のせいなのかも……お兄ちゃんと出会えたのは」
「そんなことないわよ」

愛美の手がそっと有子の頭を撫でる。

「力があなたのすべてじゃないわ。あなたと和泉くんが出会えたのは――」

愛美はそこで言葉を途切らせた。

天から光が降りてきたのだ。どこまでも、白い光。

それは、『ありす』を守る騎士の姿になった。

「お兄ちゃん!!」

有子が駆け出した。彼女を追って、龍之介も。当然、信吾も。鬼ごっこはまだ終わっていないらしい。
その3人の姿を目で追いながら、愛美もゆっくりと歩きだした。

「――すべては、ありし日のように……パパもそう言ってたわね。様々な出来事は、未来でもっと"幸せになった時"を実現するために起こるんだ……って」

有子にとっての幸せな時は、いつのことだろう?

今か。それとも、もっと先か。

「これからずっと、よ」

そうであってほしいな、と愛美は誰へともなく願った。

「愛美せんぱーい! 早く早く〜」
「有ちゃ〜ん、俺もいるよ〜」
「いい加減にせんか、天草ぁ!!」
「愛美せんぱ〜い!!」
「…………これからずっと、あのままっていうのも……ちょっと困るけどね」

周りをまるで気にしない無邪気な有子の姿に、何となく自分が面倒を見てあげなければと、奇妙な義務感に捉われかける愛美だったが。
まさかその想いが現実のものとなり、彼女の気苦労の1つになろうとは、さしもの選挙管理委員長も予想だにしていなかったのである。
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