第7章:ALICE
〜すべては、ありし日のように〜
「鬼神一刀流、疾風!」

大胆に面を打つと見せかけて、抜き胴。基本的な技だが、信吾が振るう木刀は言葉通り疾風の速さで『帽子屋』へ迫る。少なくとも、信吾以外にその動きを見切れた者はいなかった。
攻撃を受けた『帽子屋』も、例外ではない。無防備な腹へ、吸い込まれるように打撃が決まる。

ごっ――!

「グゥッ!」
「やったか!?」

身体をくの字に折り曲げる『帽子屋』を見て、龍之介が祈りにも似た声を上げた。何だかんだ言っても、戦いは苦手だ。しないに越した事は無い。

しかし。

「……駄目ね、やっぱり」
「クハアアアアアアアッ!」

愛美の呟きは、執念に満ちた咆哮に打ち消されかけた。聞こえたのは、彼女の後ろにいる有子だけだ。けれど、意味までは良く分かっていない。むしろ、彼女の達観した態度に驚いているといってもいい。
その想いが視線に表れていたのだろう、愛美が有子の方を見て笑みを浮かべる。

「不思議そうね」
「え……あ、はい。何ていうか……私なんかと違って落ち着いているなあって」
「そう見える?」

既に戦いそっちのけだ。元々、愛美も戦いに向いているわけではないが。

「私だって、怖いのよ。本当は、とっても……」
「ええっ!?」

目をまん丸くする有子を見ていると、笑みが苦笑に近いものへと変わる。自分はしなくなってしまったストレートな反応が、懐かしいような気もして。

「怖いけれど、大丈夫よ。鬼堂くんと……ついでに天草くんもいるしね」
「俺はおまけかあっ――うひょっ」

女性の言葉となると、耳まで良くなる龍之介である。不意をついてきた『帽子屋』のシルクハットも、かろうじて避けた。

「ほらほら、よそ見してる場合じゃないわよ」
「愛美ちゃ〜ん」

龍之介の哀願するような声にも、耳を貸さない。有子はつい前へ飛び出そうとしてしまうが、愛美が止める。

「いいんですか?」
「人間には役割ってものがあるわ。チャレンジ精神は評価されてもいいけど、無茶とは別物。自分のできうることと状況を見極める目を持ちなさい」

――や、やっぱりすご〜い。これが貫禄っていうのかな?

しかし、有子には分からなかったが、愛美も前線へ出たい気持ちを必死で抑えていたのだ。指をくわえて状況を見ているくらいなら、彼女は無謀でも躊躇なく前へ出てしまうタイプだから。

だが、今、彼女の後ろには有子がいる。

――私の役目は、この子の迷いをできるだけ軽くすること。悔いは残ったとしても、決して心がそのことに囚われることだけはないように。

本当は後悔だってさせたくないが、どうしようもない限界という現実があることを、愛美は知っている。ただ、心だけは屈してほしくないのだ。

「自分を信じなさい。すべては、それから始まるんだから」
「は、はい……!」

こくこくと頷き、有子は考え始めた。自分ができうる、最良の手段。

すなわち――『ありす』として完全に目覚める方法を。

そうすれば、『帽子屋』も止められるはずだ。確かに先輩たちは強いけど、やっぱり戦いは嫌だ。怪我なんて、してほしくない。

――『帽子屋』さんにも……。

先程までの怒りは、まだ消えたわけではなかった。それでも、『帽子屋』を傷つけようとは思わない。

――いいかい、有子。

不意に、思い出の中の祖父・泰造が優しく語り掛けてくる。

――今のお前にはまだ無理かもしれないが……心の中の想いを素直に出すようにしてごらん。それは決して悪いことじゃない。

――……ほんとに?

あの頃の自分は、自分自身に怯えていた。正確に言えば、溢れ出てくる感情に。その想いが、自分のものか周りにいる誰かのものか分からなかったから。
そんな有子の小さな頭を撫でで、祖父は言葉を続ける。

――ああ、もちろん。けれど、その想いに呑み込まれちゃいけないよ。有子の大好きな人を傷つけてしまうかもしれないからね。

――そんなの、いや。ゆうこ、おじいちゃんもおばあちゃんも……みんなみんなだいすきだもん。

――じゃあ、おまじないをかけてあげよう……有子が、いつでも優しい有子でいられるように。

そう言うと有子を抱き寄せ、背中をぽんぽんと叩いてくれた。今にして思うと、祖父は涙を隠していたのだ……。
あの温もりは、言葉と共に今でも覚えている。

「お爺ちゃん……おまじない、ありがとう」
「何か言った?」
「えっ、あ、あのぅ……な、何でもないです!」
「そう」

(表面上は)あっさりと納得した後、愛美は少し困ったように眉をひそめた。

「でも、向こうの方は何でもないって状況じゃなさそうね」
「……え?」

有子は愛美の視線を追い――息を呑んだ。
『帽子屋』の肉体は、既にぼろぼろだった。『ジャバウォック』との戦いに加え、信吾との激闘で限界は超えている……そのはずだった。

だが。

「……たいしたものだ。その傷でまだ動けるとはな」

荒い息をつきながら、信吾が小さく笑う。武道を学んだ者の性なのか、心底嬉しそうだ。とりあえず、この時だけは今までの『帽子屋』の悪行を忘れているらしい。

「精神が肉体を超える……か。そこまでして、彼女を手に入れたいのか」
「キサマナドニ、ワカルワケガナイ」
「そうやって、お前は自分から孤独を選ぶ。なぜ、自分を閉ざす。なぜ、最初からすべてを諦める?」

かすかに、同情の色が混じる。
しかしそれは、『帽子屋』の怒りを更に掻き立てた。

「ヤメロ! ソンナメデ、オレヲミルナ! キサマラノドウジョウハ、ウケン!」
「みっともないだけだぜ、『帽子屋』」

龍之介は、シルクハットによって切り裂かれた左腕を押さえたまま呟く。

「お前、ただの駄々っ子じゃねーか。甘えてるだけさ、有子ちゃんに」
「チガウ!」

何かが剥がれ落ちていくように、『帽子屋』の声から醜さが消えていく。代わりに現れたのは、弱さ。もろくて、もろくて……悲しいほど、はかない。

彼の強さは孤独ゆえのものであり、それは同時に弱さでもあったのだ。
今、それが全員の目の前にさらされていた。

「『帽子屋』さん……」

有子は、どんな顔をすればいいのか分からない。大丈夫だよ、と微笑みかけてあげればいいのか、それとも一緒に泣いてあげればいいのか。

――怒るなんて……もうできそうにないし。

怒りや憎しみが持続しないのは、自分の、おそらくは長所だ。

――うん、そうだね。長所だったら、生かさなきゃ……甘いって言われるかもしれないけど、私はやっぱり……永沢有子だもん。

有子が、1歩前へ踏み出した。


気配を察した愛美が振り向いて、有子を見つめる。サングラス越しに穏やかな視線が感じられた。

「……いいのね?」

言葉はそれだけだった。

「はい」

有子も、ただ返事だけをした。それだけですべては伝わると信じていた。
愛美は微笑むと、横に動いた。

「鬼堂くん、天草くん。もう、いいわ」
「――そうか」
「俺、途中までエスコートを――をぶっ!?」

余計なことを口走る龍之介に、飛んできた愛美の扇子が直撃する。
その脇を通り抜けながら、有子は緩みかける口元を押さえた。不安を感じていたはずなのに、あっさり吹き飛んでしまっていた。それを予期した漫才ではないだろうが。

静かだった。

有子が前へ出てきても、『帽子屋』は反応しない。
暗い眼差しが、彼女を吸い込むように映し出している。そこには、何もない。怒りも悲しみも――どんな想いも存在しないのだ。
虚無という単語が、不意に有子の脳裏をかすめた。
彼は既に死んでしまっているのかもしれない。少なくとも、その心は……。

「ごめんなさい……『帽子屋』さん。私、ずっと恐かった……自分が『ありす』だって……自分が普通とは違うって認めるのが……恐くて……寂しかったの」

支えてくれる人はいた。励ましてくれる人もいた。けれど、有子は幼くて弱かった。幼いことが弱いというわけではないが、そうなりやすいことは確かだ。心も身体も成熟していないから、どうしても耐えきれない。

有子も、そうだった。彼女は負けてしまった。恐怖に、孤独に。

「でも……もう終わりにしなきゃ。これ以上、誰にも傷ついてほしくない」
「ナラバ、ワレトヒトツニナルカ」
「私は……」

声が震える。ためらいが、喉を嗄らす。

――頑張らなくちゃ……! 先輩たちや、お兄ちゃんから受け取った信頼の分まで。私も、頑張らなきゃ!!

そのためにも、今度こそ逃げない。恐怖も孤独も、乗り越えてみせる。
自分1人では駄目かもしれないけれど。

しかし、今は。

「私は……分かったの。私が独りぼっちじゃないって。信じれば、手を伸ばせば、そこに大切な人がいる。それなら、何も恐くない!」
「ウソダ……ウソダウソダウソダウソダウソダ! ウソダ!!!」

認められない。
『ありす』が孤独でないなら、自分はどうなる? 彼女の孤独から生まれた自分は?

……嫌だ。

『帽子屋』は、怖いのだ。自分が本当に独りになってしまうかもしれないと思えて。

だから、認めない。認めたくない。

「ウソダアアアアアアアッッッ!!!!」

すべてに抗い、すべてを否定するかのような、絶叫。

――駄目……ね。

愛美は一瞬で判断する。おそらく『帽子屋』には、どんな言葉も届かない。いや、届いていても、彼がそれを受け取ることはない。
有子が踏み出せた、たった1歩の勇気は、彼女の心から生まれた『帽子屋』には伝わらなかった。

「……残念だわ、『帽子屋』。本当に……」
「ありすうううううっっっ!!!」

突進。
もはや自身のことなど庇いもしない捨て身の攻撃だ。『帽子屋』からすれば、『ありす』の元へ駆け寄っただけのことなのだろうが。

「合わせるわよ!」

愛美の指示を受けて、信吾と龍之介が距離を詰める。有子の前に立ちはだかるように、2人の少年が並んだ。
同時に1歩踏み出しかけ、信吾と龍之介は睨み合った。

「最初は俺だぜ、シンちゃん。こーゆー時はカッコいい順って決まってる」
「……ふん。好きにしろ」
「ドケエエエエエエエエッ!!」

『帽子屋』が迫る。その距離、5メートル……。

「――教えてやろうか?ここまでの騒ぎを起こしておいて、お前が負ける理由」

半身の体勢の龍之介が、からかうような口調で告げる。

「第1の理由は、お前が蒼明学園で騒ぎ始めたこと」

4メートル――。

「第2の理由は、俺たちが蒼明学園にいたこと……そして、3つ目は――」

3メートル!!

「俺らをマジに怒らせたってことだよっ!!!」
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