「……どういうことなのかしら?」
隣の机の紋乃が呟くように言った。
内心、「ぎくっ」としながらも、大獅は沈黙を守る。
彼女が何について言っているのかは明白だったが、そのことは彼が教える訳にはいかない。大獅はそのことについて何も知らないことになっているのだから。
「署の近くの本屋」でのちょっとした集団失神が騒ぎになっていたが、それも二、三日もすれば立ち消えることだろう。もしかしたら、裏で心配性な『影宮』のネットマスタ−が動いたのかもしれないが、大獅には確かめる術はない。
「本当に一昨日の晩、何があったんだろう。」
結局、彼女はあの晩から昨日の昼位までの記憶を無くしていた。
というより支配されていたせいで、彼女自身の心は殆ど眠ったままの状態だったということだろうか。"彼"が記憶を消していったという可能性もあるが、今となっては確かめる術もない。
「ねぇ、大獅君。本当に何も知らない? 私、何か変なことしなかった? ゲンさんに聞いても教えれくれないし、他にみんなは、『何も無かった。』って、口をそろえて言うばっかりだし。これまでこんなこと無かったのに……。」
「別に気にしなくっていいんじゃないか。みんなが何もなかったって言うんだから、何もなかったんだよ。」
大獅の説得力に欠ける言葉では、紋乃は全く納得していないようだ。
バンッ!!
「気にしない訳ないじゃない! 記憶が無いのよ、記憶が! こんなことをただ、ぼぉーっとして受け止めろ、とでも言う訳! 大体ねぇ、大獅君はいつだって……」
机を叩き、紅潮した顔を近づけて力説する紋乃に辟易しながら、大獅は"彼"の残した言葉を心の中で反芻していた。
『人間には私の見てきた様な醜い部分もあることを……』
――判っているさ、そんなことは。だが、そいつを見極め、叩き直す為でもあるんだ。俺が今、ここにいるのは……――
大獅は心の中で独白した。
だが、答えの返ってくる筈のないその言葉に、意外にも答えは返ってきた。思わぬ形で。
――そう願いたいものだな――
「………!?」
突如、心に響いた声に本気で意表を突かれた大獅は、急いで辺りを見回す。
しかし、周りにいる刑事達――高宮課長や稲生刑事、住田刑事等――は彼の方を向いてすらいない。先程から耳元に響いている声の主は論外だろう。
――何処を見ている。相変わらず鈍いようだな――
大声でわめきそうになりつつも、どうにか自制した大獅は、息を整えた上で、心の中で"彼"に話しかけた。
――お、お前! 何だっていきなり話しかけてくるんだよ! しかもこんなやり方で! 暫く眠ってるんじゃ無かったのか?――
――心で話してさえ、うるさいのは変わらないようだな。ちゃんと休息はとっておるよ。ただ、別に何処かへ消え失せた訳ではないからな。よくこの娘を見てみるといい――
改めて紋乃の方を見てみるが、特に変わった様子はない。いや、彼女に変わった様子はないが、そのスーツのポケットから覗いている茶色の物は……。
――お前、矢賀原を解放したんじゃなかったのか!――
――何を言っている。確かにお前との約束通り、この娘は解放した。ただ、私としても人間を観察するには、人間の側にいた方が何かとやり易いのでな。暫く厄介になることにしたのだ――
「か、勝手なことを!」
突然の大声に、大獅を問い詰めるのを諦めてデスクワークに戻っていた紋乃が、驚いた顔で彼の方を向いている。
「な、何よ、大獅君。いきなり大声出して。」
見ると、周りの同僚達も、何事かと彼の方を眺めている。
「い、いや、ああ、その、何でもない。」
「本当に?」
「あ、ああ。」
「ふうーん、そう。」
余り納得していない顔ながらも紋乃が仕事に戻ると、彼等の方を向いていた刑事達も各々の仕事に戻っていった。幾人かは実に残念そうな顔をしていたが。
皆が自分の方を見ていないことを確認した上で、大獅は再び心の中で話し始めた。
――それなら別に矢賀原の所でなくてもいいだろうが!?――
――ならば、お前が別の人間を紹介してくれるのか?――
――何ィ!?――
――私にはもはや、自力で動く力は無い。肉体が無いからな。無闇に人を支配する訳にもいかないだろう?となれば、この娘の所にいる他あるまい――
「ちょっと、大獅君どうしたのよ?さっきから突然怒鳴ったり、静かになったと思ったら今度はしかめっ面して唸っているし。」
声には出していなくても、その心情は顔に出ていたらしい。様子のおかしい大獅を見かねて、紋乃が声をかけてくる。
「いや、何でもない。ところで矢賀原、お前そのポケットの奴、どうしたんだ?」
聞かれた紋乃はポケットの中の物を取り出す。それは水牛の角の欠片を加工して造ったマスコットの様だった。何を型取ったものかは解らないが、紋乃はそれを大事そうに両手で持っている。
「ああ、これ? ちょっと前に行きつけのアンティ−クショップに行ったら、『お守にいかが?』って勧められちゃってね。結構可愛いでしょ?」
――記憶は一部変えさせてもらったぞ。あのままでは混乱するだろうからな――
もはや、心に響く声に反論する気力さえ無くした大獅は、掛けていた上着を取ると、机を離れて出口に向かって歩き出す。
「あ、どこ行くのよ?」
「警邏だ。」
「まだ、大分早いんじゃないの。」
「物事を早めにしておいて、損はしないだろう。」
紋乃の問いに無気力に答えを返すと、大獅はドアを開けて廊下に出ていこうとした。
――こんな時には仕事をするに限る!――
彼の歩調と表情が、そんな彼の心情を雄弁に語っていた。
「ああ、もう!ちょっと待ってよ、大獅君。私も行くから!」
置いてきぼりを食らった紋乃が、急いで彼の後を追って課を出ていく。
「ところで大獅君。私、気になってることがあるんだけど……。」
廊下で追いついた紋乃が大獅に尋ねた。
「……結局、あのお見合いってどうなったの?」
彼自身忘れたいと思っていた事を問われ、大獅の表情が凍りつく。
――あんの野郎!――
その辺りの記憶まで操作してあるだろう、という大獅の甘い読みは脆くも崩れ去った。
――どうせなら、こういうとこを細工していけぇ!――
「別に、どうもならん!」
怒鳴る様な声でそれだけ答えると、大獅は紋乃の追求を振り切るかの如く早足で歩き出した。
言える筈が無かった。極々無難に受け答えし、口実を見つけて断るつもりだったのが、『真面目な好青年だ。』と相手の両親にえらく気に入られてしまったなどと……。
――先が思いやられるな。全く……――
ため息混じりの"彼"の言葉にも、今の大獅に答える余裕はなかった。
騒がしい二人のいなくなった刑事課では、課長と稲生刑事の声だけが響いていた。
「やっぱり、あの二人はなかなかうまくいきませんなぁ。」
「そのようね。でも、あの二人はあれでいいのかもしれないわね。」
「そうですか?」
「ええ。とりあえず、収まる所には収まったようだし。」
「まあ、そう言われれば……。」
湯飲みを傾けつつ、稲生刑事が呟く。
「暇ですなぁ。」
「そうね。」
書類に目を通しながら、課長が答える。
秋の風が薫る季節、熱田署刑事課は再び訪れた平穏な日々を満喫していた。
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「そうか、ああ、分かった。いや、別にそれは構わない。お前もご苦労だったな。ああ、そっちには俺の方から言っておこう。うむ、それでは。」
ガチャン。
話を終えた三倭神刀悟は、静かに受話器――黒光りするダイヤル式の本体に繋がっている――を置くと、先程から彼の様子を伺っている先客に向き直った。
「大獅から今、連絡があった。何の相談もせずに自分の独断で騒ぎを静めてしまった事と、お前に手間をかけさせた事を随分と気にしていたぞ。」
刀悟は目の前に座る美貌の占い師――晶=クリスティ−に向かって苦笑まじりに語りかけた。
湯気を立てる緑茶を一口、口に含みつつ、晶もそれに答える。
「そう、あの子らしいわね。」
晶の顔にも微笑が浮かんでいる。
「まぁ、私に対する礼はその内ちゃんとしてもらうとして。今回のは、あの子のやり方とは言っても、かなり無茶なものだったわよ、何度冷や冷やしたか判らない位にね。」
口許を覆いつつも、大獅を弁護する刀悟。
「酷い言いようだな。あいつはあいつなりに一生懸命だったのだろう?」
「当然よ。自分の相棒――ま、それだけじゃないのでしょうけど――の危機だったんだもの。あれで一生懸命にならないような奴は、それこそ男のクズよ。」
その表情は笑みを絶やさぬ魅力的なものだったが、口をついて出る言葉は、ドライアイスから造られた錐の如く、怜悧かつ辛辣なものだった。
「大体、もしあそこで"ナンディー"と和解出来なかったらどうするつもりだったのかしら? 考えただけでも頭痛がしてくるわ。」
その後も暫く、大獅の動きの不味さを酷評していた晶だったが、不意にその顔――造物主がその全霊を込めて形造ったかの如く精緻に整っている――から笑みを消すと、普段には決して聞かれない口調、まるで年端もいかない少女のように頼り無い口調で、目の前に座る刀悟に話しかけた。
「今回の事では、本当に世話をかけてしまったわね。皆に知らせないでいてくれたことには、いくら感謝してもしたりないわ。」
「そんなことは別に気にしなくとも……。」
だが、刀悟の言葉には答えずに、晶は更に続けた。
「それに、大獅君にも。本来ならあの子は、こんな騒ぎに巻き込まれずに済んだ筈なのに、私のせいで……。」
刀悟はなんとか彼女に声をかけてやりたかったが、彼の内にはそれに相応しい言葉は見つからず、ただ黙っている事しか出来なかった。
暫くの間、二人とも黙りこくっていたが、やがて晶が口を開いた、静寂に耐えきれなくなったかの様に。
「今回の騒ぎの元、"ナンディー"がここ、名古屋に来たのは、恐らく私がここにいたからでしょうね。」
「目的はお前の"誘い出し"か。すると、仕組んだのは……。」
「ええ。"インド"の連中よ、間違いなく。私がいた頃は私の母国、イギリスに支配されていたけれどね。あの子がインドからここに来たことについては、間違いなく奴らの差し金よ。流石は"マハーバーラター"。しつこさにかけては世界でも指折りの根性曲がり共ね。世界一をくれてやってもいいかも……。」
インド二大叙事詩の一つの名――この場合は敵対する者達を指すであろう名前――を楽しげにすら聞こえる口調で話していたが、刀悟にはその言葉がいつもの彼女の言葉ではなく、何か奥底に過去の辛さを引きずっているような重苦しさを秘めている様に感じられた。
「何にせよ、さっさと終わってくれて、ほっとしたわ。連中とこの『影宮』を係わらせる訳にはいかないものね。」
さばけた口調で話しているが、言っている側も、言われている側も肌で感じていた。
何も終わっていない。始まったばかりだということを。
どちらも形の違いはあれ、長い年月に多くの修羅場を潜り抜けている。
そんな二人の経験が告げていた。今が雲一つ無い快晴でも、知らぬ間に嵐が迫っていることもあるのだと……。
――俺にしてやれることはないのか?――
三倭神刀悟は自問した。
いつもは知らぬ事とて無い、刀悟にも対等以上の口をきく彼女が、この時ばかりはまるで触れれば消えてしまいそうな程儚げに見えた。
してやれることがあるなら、いかなる事でもしてやりたかった。
しかし、それは彼には出来なかった。何故なら、刀悟には、晶がそれを跳ね付けるであろう事が判りきっていたから。
彼女は常に孤独だった。
どれほどあけすけに話をしていても、その心には決して誰も踏み入らせない。
刀悟の知る晶とはそういう女だった。
二人ともが黙ったまま、時だけが過ぎる。告げる者も無いままに。
澱みきった静けさを破る様に、晶が立ち上がった。
「そろそろ帰るわ、店の方をあまり閉めてもいられないから。お茶、おいしかったわ。今度は紅茶を飲ませて欲しいものね。」
それだけ告げると、刀悟の返事も待たずに、晶は『影宮』内の社殿から出ていった。
黙ってそれを見送った刀悟だったが、晶の姿が見えなくなると、ぼんやり光る空を眺めながら、呟く様な声で独白した。
「晶=クリスティー。お前はどうするつもりだ? お前は確かに強い女だ。だが、一人で抱え込む事にはおのずと限りがあるものだ。ここにはお前を助けてやりたいと思っている者、お前と共に歩む事を望む者達がいるのだ。お前は一人でいる必要はない。もっと心を開く事は出来ないものなのか……。」
しかし、彼の呟きは晶に届くこと無く、虚しく空に消えるばかりだった……。
つづく
© 1997 Member of Taisyado.