「まだ諦めていなかったのか。」

握っていた自身の本体を内ポケットにしまいながら、"彼"は言った。
努めて冷静を装っている。
だが、待ち焦がれた時を邪魔された怒りがその言葉の端々に滲み出ていた。

「当然だ。仲間をさらわれたままで、誰が諦めるか!」

売り言葉に買い言葉とばかりに威勢良く答える大獅だったが、その言葉とは裏腹に、彼はこれからどう動いたものか、決めあぐねていた。
紋乃を取り戻す為には、"彼"と戦わねばならない。
しかし、下手に手を出して紋乃に危害が及んでしまったら、また紋乃を楯として使われたら、大獅にとっては正に身動きの取れない状態になってしまう。

――どうする? 憑り付いている奴の本体を奪うか、叩き壊せれば何とかなるかもしれんが、一歩間違えれば…… ――

心に浮かんだ想像を必死に振り払う大獅。そんな結果だけは絶対に避けなければならない。

――ならどうする?説得するか、奴を――
――しかし、俺に出来るか? ――
――雷顕さん辺りならともかく、人質取って立て籠もった犯人の説得さえうまくやったことのない俺に……――

『影宮』の助けを請わなかった事を今更ながらに悔やむ大獅。しかし、それは正に"今更"どうしようもないことだった。

結局、大獅は全く手を出せないまま、"彼"を睨み続ける事しか出来なかった。

だが、手詰まりになっているのは"彼"の方も同じだった。

この歳若い『獅子』が自分、と言うより自分の依代に手を出せないことは解りきっていた。この人間の心には、『獅子』との思い出も詰まっていたから。
だが、"彼"の方にも直接この『獅子』を倒したり、動けなくしたりする方法は無いに等しかった。

――これが我の力に耐えうる体でさえあれば!――

"彼"はそう思わずにはいられなかった。
かつての"彼"の肉体、大自然の内で鍛えられた巌の如き肉体でさえあれば、この『獅子』と対等以上に戦うことが出来るだろう。いかに『百獣の王』の異名をとる獅子であっても、"彼"の目の前にいるのは未だ未熟な若者にすぎない。戦って負けることはあり得なかっただろう。

だが、現実に"彼"が持っているのは、脆弱な人間の女の肉体であるにすぎない。今戦っても、到底勝ち目はないだろう。

その意味では『獅子』――大獅が仕掛けてこられない事は、正に幸運だったと言える。いかに未熟とはいえ、先程と同じ方法が通用する程甘い相手でもないだろうから。

その上、"彼"は今、出来る限り戦いを避けねばならない状態にある。自ら望む肉体を手に入れる為には、是非とも"彼"自身の本体を後ろの柵の中、それも中にいる水牛の近くに届くよう投げ込まなければならない。自分を倒そうとしている者の目の前で。

双方が相手に手を出せないまま、暫くの間、時だけが流れていった。

「……何故だ?」

おもむろに"彼"が尋ねた。

「何故、お前はこれ程、人間に肩入れする? お前とて知らぬ訳ではあるまい。人間達が我々、自然に生きている者達に為している仕打ちを。」

語りかける"彼"の口調は、淡々としている。
だが、それ故に、余りにも深い"彼"の怒りと悲しみが大獅には感じられた。

「我等に何の咎があった? 我等はただ、自由な森で、川で、山で、静かに暮らしていたに過ぎない。それをこいつらは……」

紋乃の体を指さしながら、更に言い募る。

「こいつらは、己等が住む以上の土地を手に入れる為、森を切り開き、川を埋め立て、山を削ってゆく。己等が食う以上に我等の仲間を殺し、捕らえる。時には、ただ快楽の為だけに我等の仲間を追い立てさえする。このような愚かな、いや愚かと言うことさえ愚かしい、醜悪な、生き物の恥晒し共に、お前が肩入れする理由があるというのか!」

"彼"の言っている事は、大獅には痛いほど良く理解出来た。

彼自身も、人間の行う自然への仕打ちには堪え難い怒りを感じていたから。

そして、何より人間が自分よりも弱い者に振るう暴力に対しては、許し難い思いを常々抱いていたから。

だが、大獅は"彼"の想いに共感を覚えながらも、同時に、その想いに反発せずにはいられなかった。何故なら、彼には刑事として、また妖怪として、多くの人間達に係わってきた過去があったから。

「……ああ。確かにお前の言う事は間違っちゃいないよ。人間は時として信じられない位、馬鹿な真似をしでかす連中だからな。だが、俺は人間の中で生きている分、お前よりは人間のことが解るつもりだ。そして、人間の中にはな、自分のことも考えずに、自分以外の奴を守ろうとする、そんな連中もいる、ってことも知ってるんだ。」

大獅の言葉に"彼"は激しくかぶりを振る。

「馬鹿な!? 信じられん!」
「だろうな。だが、事実だ。」

荒らげられた"彼"の口調とは対照的に、大獅の言葉は静かだった。
先程までの紋乃を取り戻さねばという焦りや、紋乃を乗っ取られた怒りは不思議と大獅の心から消えていた。今は、この紋乃に取り憑いている見知らぬ妖怪をなんとかしてやりたい、それだけだった。

「だが、現に人間達は、このように我等の仲間を狭い場所に閉じ込めて見せ物にしているではないか!」
「でもな、絶滅しようとしている動物を必死に助けようとしている連中だっているんだ。」

"彼"の反論にも落ち着いたままで答えることが出来る。
だが、"彼"の方は、そんな大獅の冷静さに反比例するように、怒りを募らせていった。
そんな"彼"の怒りに同調してか、紋乃の顔は紅潮し、握られた拳は血の気を失い真っ白になっている。

「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇぇぇぇぇ!!」
「いいから、俺の話を聞け!」
「そんなもの聞きたくないわよ!!」

突然の声は紋乃の口から発せられたもの。だが、"彼"の口調ではない。

――なに!? ――

「いつだってそうよ!あなたは!!」
「馬鹿な!?表に出られる訳が!?」

――私の言う事なんかちっとも聞いてくれなくて――

「眠らせた筈!?」
「少しは、私の気持ちだって!」

――ええい!!黙れぇぇ!!――

おそらくは、眠っている筈の紋乃の意識が"彼"の怒りに反応して、自分自身の怒りをもぶちまけたのだろうが、今や"彼"には、自分の怒りどころか紋乃の怒りも押さえることが出来ない。

紋乃の内は正に混乱の極みに達しつつあった。

理性を失った"彼"――若しくは紋乃は、大獅から見てもかなり危険な状態のように思えた。このまま放っておくと何をしでかすか、想像もつかない。

――いかんな……あのままでは……――

大獅の脳裏を再び、先程振り払ったイメ−ジが横切る。以前に勝る鮮明さで。

「おい……。」

近づきつつ、手を伸ばそうとする大獅。
だが、その行為に対する紋乃の反応はあまりにも過敏だった。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

絶叫と共に、紋乃の体から真っ白い光の奔流が迸る。
そして、それは紋乃の体を一瞬に包み込むと、巨大な四足獣の姿を形造った。

「GYURRRR……。」

もはや、言葉にならないうめき声を上げると、その四足獣――多少ぼやけているが、どうやら牛のようだ、体長6メ−トルの牛というものがこの世にいれば、だが――はそこだけ緋く光る瞳で大獅をジッと見つめた。

――これは奴の力なのか、それとも……――

だが、大獅に事態を判断する暇はなかった。

「GRAAAAAAAA!!!」

四足獣はその巨大な口――河豚のそれ程もある――から咆哮をあげると、大獅めがけて突進してきた。

――避けきれん!? ――

そう感じた瞬間、大獅の体が一瞬眩いばかりの閃光を発する。
その閃光が止んだとき、そこには人――皇城大獅の姿は無く、かわりに一体の獣が立っていた。

1メートル半程の体長をした獣。その前足の爪は歩くには不都合な程に大きく、口からはみでた牙は鉄板さえも貫きそうに鋭い代物だ。何より全身から放たれる神々しい霊気は正に、神話か絵画の中から抜け出してきたとしか考えられない、強烈な存在感をアピールしている。

これが大獅の本来の姿――神獣『獅子』――だった。

本来の姿に戻った大獅は、人間の姿をしている時からは遙かに上がった力で四足獣を受け止める。そのまま前足で抱え上げたかと思うと、反動を付けて真横に叩きつけた!

完全な実体ではない四足獣は叩きつけられても大きな傷を負った様子はないが、それなりの痛みはあったらしい、その巨体には似つかわしくない素早さで起き上がると、明らかに怒りのこもった視線を大獅に投げかける。

「GHUUUUU……。」

大獅も負けじと睨みかえす。
それは明らかに獣同士の決闘だった。
もし、この場に彼ら以外の者がいたならば、何かのアトラクションかという疑問を通り越して、猛獣が逃げ出して暴れているものだとでも思ったことだろう。

だが、この場には彼等以外誰もいなかった。

ほんの数分前までは家族連れで賑わっていた動物園の一角に、ぽっかり抜け落ちたかの如く、人っ子一人いない空間が出来上がっている。

とはいえ、既に理性を失っている"彼"はもとより、目の前の相手に集中している大獅も、その事実に気付いていなかった。
今の彼らに見えるのはただ、目の前の獣だけだった。

――このまま戦い続ければ奴を倒せるかもしれんが……――

大獅の胸の内で"彼"の怒り、そして紋乃の叫びが交錯する。このまま戦えば、仮に勝利したとしても、紋乃が無事に戻ってくるという保証はない。

ブンッ!

繰り出される牛の蹄を躱わしながらも、大獅は迷っていた。

――聞いちまったもんなぁ…… ――

それが"彼"の言葉を指すのか、紋乃の怒りを指すのかは判らないが、とにかく今の大獅の心から、「四足獣を倒す」事へのためらいはなかなか消えない。
かと言って、このまま守りに徹していては、紋乃を取り戻す事など永久に叶わない。

――矢賀原は取り戻さなきゃならないし……やってみるか!――

それまで完全に"受け"に徹していた大獅が突如、反撃に転じた。
襲い来る蹄を、角を受け、躱しつつ、何とか四足獣の懐に飛び込む大獅。

――うまく、いって、くれよ!――

腹の真下当たりに潜り込んだ大獅は、半透明な四足獣の腹めがけて一気に鉤爪を叩き込む!

ザシュッ!!

実体の無い体にはかすり傷一つ負わせられない。
だが、彼の鉤爪がえぐった部分は、僅かながら"層"が薄くなっている。

――よっしゃ!!いけそうだ!!――

思惑の当たった大獅は、心の中で喝采を叫ぶ。
彼はこのまま、文字通り紋乃を"掘り出す"つもりなのだ。
ある意味、極めて大獅らしい発想と言えるだろう。

しかし、例え痛みはなくとも自分の一部をえぐろうとする大獅は、理性を失っている今の"彼"にとって正に"敵"だった。

敵に対して、今の"彼"――と言うより彼の本能――が取りうる手は二つ。
敵の破壊か、吸収か。

萎えてゆく『自分』を感じた"彼"は本能的に自己を保つ道、即ち"吸収"の道を選んだ。

すぐに"敵"を取り込むべく力を使おうとした、その瞬間!

ズファッ!!

再び大獅の鉤爪が"彼"の腹にめり込む。
大獅としては当然の行動、ただ紋乃を"彼"から引き離そうとしただけだったが、それが双方にとって思わぬ結果を招いた。

大獅の鉤爪――その鋭利な刃が、その鋭利さ故か、または大獅の力が強すぎた為か、"彼"の半透明の体を突き抜け、紋乃の腕をかすめてしまう。

――し、しまったぁ!! ――

声にならない悲鳴を上げる大獅。
だが、その時上がった悲鳴がもう一つあった。

――や、やめて……もう、やめてぇぇぇ!!! ――

自らに迫った危険を無意識に感じた紋乃の心があげたものだった。
鉤爪はほんの僅かかすめただけで、紋乃には殆ど傷を与えてはいない。だが、つい昨日銃撃の中に身を置き、死にかけた彼女の心は、身の危険に余りにも過敏だった。

そして、そんな彼女が上げた悲鳴は大獅にこそ届かなかったが、理性を失い、本能のみで動いている"彼"には思いがけぬ効果を上げる。
只でさえ不安定な状態で、他者の精神をからめ捕ろうとしていた"彼"の力は、その"悲鳴"による衝撃で容易に制御を失ってしまった。

カッッ!!

大獅と"彼"の意識は突如、凄まじい光芒に包まれ、暗転した。

*******

抜けるような青空とムッとするような緑の匂い、そして豊かに溢れる河の流れの中。
周りには多くの仲間がいる。
子供に水浴びをさせる母親。
遊び回る子供たち。
力を試し合う若者たち。
皆、豊かな自然の恵みを満喫している。
平和そのものの光景。

ズダァーーン!!

突然鳴り響く銃声。
打ち砕かれる平穏。
逃げまどう仲間たち。
次々に打ち倒される家族を目の前にして何も出来ない、してやれない。
そして、とうとう自分にも銃口が向けられる。

ズダァーーン!!

目の前が真っ赤に染まる。
四肢から力が抜け、ゆっくりと倒れ伏す。
笑いながら近寄ってくる人間達。

――この怒り、この屈辱、忘れぬぞ!我は……皇城大獅!!――

*******

春の日差しの中。
署内のいつもの刑事課。
隣には見慣れたいつもの顔。
見慣れたいつもの光景。
誰かが口を開く。沸き起こる笑い声。
開かれる読んでいる新聞。
目に入るのは刑事事件ばかり。殺人。強盗。放火。詐欺。
何故、これほど毎日続くのだろう。
何故、うまくやっていこうとしないのだろう。
沸き上がる疑問。
突然鳴る電話。
活気づく課内。
いつもの声で伝えられる命令。
上着を掴みつつ、刑事課を駆け出す。
すぐ隣にはいつもの顔。ささくれ立つ気分が僅かに和む。
気分を改めて走り出す。

――今日も平和にはいかないみたいだな、俺は……俺は……!!――

*******
!?

気が付くと、"彼"と大獅は元通り向かい合っている。

大獅の姿は人間に戻り、"彼"は理性を取り戻している。四足獣の姿は何処にも見当たらない。

何が起こったのか、大獅にもおよそは理解出来た。
恐らくは怒りに満ちていた"彼"、そして紋乃の心と、彼らを救いたいと願い、人間を信じたいと思う大獅の心が触れ合っていた、という事なのだろう、と。

そして、その触れ合っている一瞬の間に、彼らの意識は幾分か柔らかさを帯びてきた光に包まれながら、相手の思い出、感情、思考を垣間見ていた。

大獅の中の刑事課の同僚との光景や儚い命に対する義務感、そして動物を殺す者達への怒りを。

"彼"の心の、生い茂る緑や、河や平原で生きていた頃の思い出、仲間や同じ群れに住む動物達との共存、そしてそれを破壊し、家族達を奪った人間達への怒りを。

それぞれに何故相手がこうまで自分を貫こうとするのかを、余す所無く見ていた。
彼らの心にある大切な想い――大獅の仲間や紋乃に対する感情、"彼"の群れの者や生まれ育った大自然への限りない愛情――を隔てるものも無く、文字通り肌で感じていたのだ。

百万言の言葉にも勝る意思の疎通だった。

それは、相手の気持ちや考えを理解すると同時に、相手の悲しみ、怒り、絶望をも共有することだったから。

――我が人の内に生まれ育ったなら、人を信じられただろうか?――

――俺が奴のように自然の中にいたら、仲間を殺した連中を憎まずにいられたか?――

ふたりの心に疑問、迷い、困惑が去来する。
彼らがその記憶の奔流に身を置いたのは、正に一瞬の間に過ぎなかった。

時間にしたら、一秒にも満たない、まさに刹那の時間。

だが、その間は彼らには無限とさえ感じられる程長く、その間に起こったことは、限りなく大きな衝撃をそれぞれに与えていた。

どちらも立ち尽くしたまま、身動き一つ出来ない。
そのままの時間が長く続いた。初秋の日差しと静寂の中を。

「何故だ?」

沈黙を破り"彼"が口にしたのは、今日二度目の質問だった。

「お前が何を考え、どれほど人間達を信じているかは良く解った。その上で敢えて問いたい。何故、お前はそれほど人を信じられる?」

"彼"の顔には、もはや先程の怒りは無く、途方に暮れた様な困惑の色だけがあった。
先程までの威厳は消え失せ、大獅はまるで迷子の子供を相手にしているような気分になった。

「私がお前の心を垣間見た様に、お前も私の心を垣間見た。確かに人間の中にはお前の知っている者達の様に、好意に値する者もいることだろう。しかし、お前自身も感じているではないか。愚かな真似をする人間たちに怒りを。何故、それでいて人間達を庇うのだ?」

"彼"の問いに、思わず息詰まりを覚える大獅。

――確かにこいつの言う通りかもしれない――

――俺は今までも犯罪を犯す奴ら、自然を破壊する奴らに怒りを感じてきた――

――だがそれでも、人間を憎い、滅ぼしたいと思ったことは一度としてなかった――

――それは何故だ……――

大獅は必死に答えを探した。
"彼"の言うことも納得できる。しかし、自分のこれまでの姿勢が間違っていたとは思えない。

自分はどうすべきなのか。

答えを探す内に、自分はついさっき、これと同じように考え込んでいたな、という思いが彼の脳裏を横切った。

その瞬間、彼の頭に一つの言葉が甦った。

『人間同士なんて、中々理解しあえる物じゃないんだ。』

それは大獅が紋乃のことで悩んでいた時に、食堂で稲生刑事にかけられた言葉だった。
彼はただ単に、大獅と紋乃の仲を心配してかけただけだっただろう。
しかし、今の大獅にとっては、それは一筋の光明であるように思えた。

――…そうだよな――

――人間同士、妖怪同士だって、簡単には解り合えないんだ――

――晶さんや雷顕さんならともかく、俺に分かる訳ないじゃねぇか!――

――答えなんか見つける必要ないんだ!――

そして、大獅は"彼"の問いに答えた。

「それはな……俺にも判らん!」

あまりの答えに完全に混乱している"彼"を尻目に、大獅は更に続けた。

「俺はあまり頭を使って行動するのが得意じゃないからな。大体は感情や勘で正しいと思った通りに動いてきた。そうして、これまで人間を守ってきたんだ。それが間違いだと思ったことは一度も無い。人間がお前の言う様なことをしていると知ってからもな。」

"彼"に語りかける大獅の顔は自信に満ち溢れていた。完全にいつもの皇城大獅の顔だった。

「確かに俺はお前さんに比べると多くの人間を知っている。でもな、だからって人間そのもののことなんぞ殆ど知りゃしないんだよ。馬鹿な奴もいれば、賢い奴もいる。同じ人間を殺して平然としてる奴もいれば、見ず知らずの人間が傷ついたと言って悲しむ奴もいる。」

まっすぐに"彼"――紋乃を見つめながら続ける。

「だから俺は俺自身が見て、信じられる、そう思える奴らがいる限り、例えばお前が今、体を使ってるその矢賀原とかだな。そういう奴らがいる限り、俺は人間そのものを信じてみようと思ってるんだ。」

全てを語り終えた大獅は、"彼"の返事を待った。
視線の先の"彼"は目を閉じて大獅の言葉について考え込んでいる様子だったが、やがて目を開いて大獅を真っ直ぐ見据える。

「この人間は信じられる。だから、人間そのものを信じるという訳か……。」
「ま、大体そんな所だ。」
「……この女に惚れているのか?」
「て、手前ぇ!そ、そういうことじゃないだろ!!」

真っ赤になりながら怒鳴り返す大獅。
そんな大獅の様子を見て僅かに表情を和ませると、"彼"は元通りの口調に戻って言った。

「お前の言いたい事は判った。それに免じて、今回は手を引こう。」
「……そうか。すまないな。」

ほっとした表情の大獅に、だが"彼"は続けて言った。

「だが、忘れるでないぞ、若き獅子よ。人間の心には私の見てきた様な醜い部分もあることを。お前の言う『信じられる奴ら』の存在が、この私に感じられなくなれば、私はまたいつでも人間に対して牙を剥くだろう。そうはならぬ事を祈るがな。」
「ああ、心得ておくよ。」

大獅の答えに満足したのか、"彼"の取り憑いている紋乃の目が次第に閉じてゆく。

「少しばかり、派手に動き過ぎたようだ。大分疲れてしまった。私は暫くの間眠ることにしよう。さらばだ、若き獅子よ。」
「皇城大獅だ。」
「そうか。ではダイシよ、お前の言う『信じられる奴ら』に宜しくな。」

みるみる内に小さくなる声に、焦った大獅が呼びかける。

「え?ちょっと待て!お前も名前位は名乗ってけよ!」
「………我自身に名は無い。ただ、人間の或る者達からはこう呼ばれていた。"ナンディーの名を継ぐ者"と………。」

その答えを最後に、彼、"ナンディーの名を継ぐ者"――インドにおいて、シヴァ神の乗る神獣として知られる存在――が再び声を発することは無かった。

"彼"の支配が完全に解けた為か、紋乃の体からすうっと力が抜け、膝から崩れ落ちそうになる。

焦って手を伸ばす大獅。

彼女の体が地面にぶつかる寸前に、ぎりぎり受け止めることに成功する。
いつもの紋乃の香り――軽いフローラルノートの香水――にほっとして、思わず肩の力が抜けそうになった。

――やれやれ。なんとか片がついたか……――

だが、その時になって、はたと今の自分の状態に気付く。

そう、彼は真正面から倒れそうになった紋乃を受け止めている。即ち、今の彼は紋乃の胸に顔を埋めた恰好になっていたのだ。

不可抗力とはいえ、嫌でも伝わってくる二つの柔らかな感触に思わず赤面する大獅。

――今、目を覚ますのだけは勘弁してくれよ!――

そう思わずにはいられない若き獅子、皇城大獅だった。

遠くなっていた雑踏が再び近づき始め、いつしか、動物園にも平穏が戻りつつあった。
←Prev 目次に戻る Next→

© 1997 Member of Taisyado.