フィィ−ン。

静かな開閉音と共に本屋の自動ドアが開く。

――ちくしょう!ひでぇ目にあったぜ――

そしてそこから、多少足元をふらつかせながらも、なんとか操られた人々から逃れた大獅が出て来る。

既に午後1時を廻っている為、比較的人通りが少なくなっている表通りを紋乃の姿を求めて見回す大獅。だが、立ち去ってから既に20分近くも経っているため、当然その姿は何処にも見当たらない。

近くの店で紋乃の背格好を話して、見かけなかったか尋ねてみようかとも思ったが、「20代半ばのス−ツ姿の女」等、この辺り、しかも昼時の今頃なら、幾らでも通ったことだろう。手掛かりが得られるとは思えない。

――ああ、くそう!!どうすりゃいいんだ!! ――

焦燥感が彼の心中に募ってゆく。
だが、何か手掛かりが無いかと本屋の中に戻ろうとしたその時、彼の背に突然、強い張りと存在感を感じさせる声がかけられた。

「何か探し物かしら、大獅君?」

驚いて振り返った大獅の数メ−トル先に、一人の女がいた。
黒絹のように整えられたロングの髪、それに映える石膏の如き肌、そして心の底まで見透かされそうな氷蒼色の瞳を具えた、それは"絶世の美女"という表現が当たり前に通りそうな女だった。

彼女は大獅が良く知っている人物だった。刑事としてではなく、妖怪として。

名を晶=クリスティーという彼女は『熱田神宮・影宮』の幹部の一人であり、『ミスティック・オーヴ』という占いの店を経営する、その筋では有名な占い師としても知られている。

「あ、晶さん!?驚かさないでくれよ、いきなり。」
「隙を見せる方が悪いのよ。」
「……そういう問題かよ? 大体何でこんな所に晶さんがいるんだ? 店の方は放ったらかしでいいのかよ?」
「ご心配無く。貴方に経営を心配してもらうほど、傾いてはいないわ。それに、店をやるのも、この辺りを歩くのも私が決めることよ。誰かにとやかく言われる事じゃないわ。」

付き合いの長い大獅は特に口を挟まなかったが、彼女と初対面の者は大抵ここで彼女に対する印象を一部修正する。"絶世の美女"の前に"黙って立っていれば"という言葉を付け加えて。

「そんなことよりも、今の貴方にはもっと大事なことがあるんじゃない? 矢賀原さんを追わなくていいの?」

晶のその言葉を耳にした瞬間、大獅の心から、それまで気になっていた晶についての疑問だの反感だのといったものが総て吹き飛んだ。

「そうだ!? 矢賀原、あいつ何処行っちまったんだ。全く……。」

声を上げながら思わず駆け出そうとする大獅だったが、そんな彼の襟首をすかさず晶が掴む。首筋への急な締めつけに、思わずのけ反りそうになる大獅。

「何すんだよ、いきなり!」
「突然、何処へともなく走りだそうとするからよ。」

当然とも思える大獅の抗議にも全く耳を貸さず、晶は更に言い募った。

「大体何処へ行くつもりだったかしら? 彼女の行き先も判らないくせに。」
「ああーっ。そうだった!くそぉ、矢賀原の奴。本当に何処行っちまったんだよぉ。」

紋乃の行きそうな先を考えて頭を抱える大獅を眺めて、思わずため息をつく晶。
だが、彼女も彼の暴走をただ眺める為にここに来た訳ではなかった。

――こいつ、この私を一体何だと思っているのかしら? ――

心に湧き上がってきた疑問を心の片隅に追いやりつつ、晶は黙ったまま何処からか水晶球を取り出し、大獅の前に差し出した。

「何だよ、いきなり。」

大獅の声を無視して、晶は自らの持つ多彩な力の一つ――妖怪の存在を察知する力――を使うべく、精神集中に入っていった。
彼女の本性は永い年月を経た水晶球。
その力による妖怪の探索は、名古屋市内程度ならほぼ全域を網羅し、対象となった妖怪の力をほとんど見通すことが出来る。

暫くの間、晶は眼を閉じたまま意識を集中していたが、やがて探索の成果が出たのか、始めは白く曇っていた水晶球の中が次第に晴れ始め、中にぼんやりと人影が見えてくる。

見え始めにはぼやけて良く判らなかった顔が、時間が経つにつれてはっきりと見えるようになった。

それは間違いなく、常に大獅の隣にいる相棒、矢賀原紋乃の顔だった。

「矢賀原!」

声を上げて水晶球に顔を近づける大獅を冷やかな目つきで見下ろしつつ、晶は静かに言った。

「後ろに何があるのかは良く判らないけど、ここからの距離はそんなにはないわね。東北東に直線距離でおよそ2.69マイル(約4.5km)。この位置にあるのは……。」
「あっ!?」

晶の言葉に割り込むかのように、突然大獅が叫び声を上げる。
気分を害した晶が目つきを鋭くするが、彼はそんなことには気付きもしない。

「そうか! 奴の向かったのはあそこだったんだ。よおっし!」

気合を入れるかの様に大声を上げると、何事かと振り返る通行人達には眼もくれずに、大獅は熱田署の方に向かって走り出した。

彼の言葉に一瞬だけあっけに取られた晶だったが、気を取り直して手の上の水晶球を覗き込んで見る。
今、そこには紋乃以外にも何かの檻と鉄骨で造られた円状の巨大な建造物を見てとる事が出来る。

「あれは……。」

それは人間達が娯楽の為に造ったもので、『観覧車』と呼ばれているものだった。
今や彼女にも、紋乃の居場所がはっきりと判った。

「そう…そうよね。あの子なら確かにあそこに行くわよね。」

大獅の向かったであろう先、そして紋乃の内の"彼"が居る場所の方を眺めながら、晶は呟いた。その瞳は限りない深さを湛えつつも、現実を離れて何処か遠い所を見つめているかのようだった。

やがて、手の上の水晶球が元通り"ただの"水晶球に戻ると再びそれをしまいこみ、何事も無かったかの如く自分の愛車に向かって歩き出す。先程、大獅のあげた大声で集まった野次馬達などには何の関心も無かったし、本屋の中で倒れている人々を助けるような人の良さとも無縁だったから。

軽やかに、かつ、優雅な仕草でドアを開き、シートに腰をおろす。

イグニッションを入れると、常に完璧に整備されている彼女の愛車は、猛烈なスピ−ドで走り出した。一般道にも関わらず、一気にギヤをトップにまで持ってゆく。
爆音とさえ思える派手なエンジン音と猛烈な排気ガスを残して、車は走り去った。後にむせかえるような妖しい薫りを微かに残して……。

********

夏の盛りを過ぎたとはいえ、昼を数時間回ったばかりのまだまだ日の強い時間帯。
しかし、ここはそんな暑さをものともしない子供達や、そんな彼らに引っ張られる様に歩いている親たちの集団で、極めて混雑していた。

東山動物園。
名古屋市によって運営されているこの動物園には、哺乳類、鳥類、爬虫類など合わせて数千種類もの動物達がおり、今日も見物に来た人々の目を楽しませている。

そして、そんな喧騒の中を、いささか場違いなスーツを着た女が一人、立っている。

そう、"彼"だ。

今"彼"のいる場所は「檻」というより、「柵」と言った方が良い――実際それは柵なのだろう――ような広く括られた一画の前だった。
"彼"は、心の内から湧き上がってくる歓喜を全身で感じていた。

目の前の動物をただじっと見つめる。

二度と会えはしないと思っていた仲間に再び会えたことは、人間に対する憎しみに凝り固まった"彼"にとっても大きな喜びだった。

だが、これから彼がしようとしている事は、その仲間の肉体に乗り移り、自分自身の肉体とすることだった。自分を虐げた者達に復讐する為に。
目的の為とはいえ仲間の心を眠らせ、体を乗っ取る罪悪感は"彼"にとって小さなものではなかったが、心の内の憎しみは"彼"自身にも鎮めようのないものだった。

暫くは言葉も無く、じっと同族を見つめていた"彼"だったが、おもむろに紋乃の手を動かすと、彼女のスーツのポケットを探り出した。
ポケットから出された紋乃の手には、数センチ程の小さな茶色の塊が握られている。
表面を綺麗に磨かれたそれは"彼"にとってかけがえの無い物、かつての"彼"の肉体の一部であり、今の"彼"にとっては存在の総てとさえいえる物だった。
だが、これから、その大切な物を失う危険を"彼"は侵さなければならない。
怒りに支配された"彼"の心が危険の為に躊躇することはなかったが、焦って失敗すれば後がないことも忘れてはいなかった。

はやる心を無理矢理落ち着かせ、"彼"が手に握った物――水牛の角の欠片――を柵の中に向かって投げようとしたその瞬間、

「待ていっ!!」

燃え盛るような妖気と共に、聞き覚えのある声が背後からかけられた。
振り返ると、そこには先程動けなくしてきた妖怪『獅子』――皇城大獅――が"彼"を睨み付けながら立っていた。

走ってきた為か少し息を上げているが、そんなものは全く気にする素振りも見せず、大獅は"彼"に向かって叫んだ。

「やっと追いついたぞ。さぁ、けりをつけてやる!!」
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