昼を少しばかり回った時刻。
土曜日ということもあり、学校を終えて帰る途中の中高生で賑わう通りを、皇城大獅は走っていた。

稲生刑事の叱咤を受けて食堂を飛び出した後、大獅は紋乃を探して署内を駆け回ったが、彼女の姿は何処にも見当たらなかった。
仕方なく近くにいた警官の何人かに聞いてみた所、署の近くの本屋で彼女を見かけた、という返事を聞くことが出来たのだった。
その警官は更に、

「確かに、矢賀原刑事をそこの本屋で見かけたんだけど、あれ本当に彼女だったのかなぁ。なんか怖い顔して、じっと本を見てるんだ。近くを通った時、俺、思わず寒けを感じたよ……。」

と続けていたのだが、大獅の方は「そこの本屋……」という言葉が耳に入った所で走り出している。

当然、彼の言葉の最後の方は全く聞こえていない。

大獅の異名である"暴走刑事"という言葉は、彼の性格を、長所、短所合わせて実によく表している。
周囲の者から見て、彼の最大の長所は一度始めたら最後までやり通すことであり、最大の短所は一度何かを始めると他のことが目に入らなくなることであったからだ。
彼のこのような特徴については、警察関係者、プライベ−トの友人を問わず意見が一致している。
もっとも、今回の彼の"暴走"が、長所の顕現であるのか、それとも短所の発露であるのかは、名古屋でも有数の占い師、『ミスティック・オーヴ』店主の腕をもってしても判ることではなかったが……。

元々、署から数百メ−トル程しか離れていない場所なので、5分も走らない内に彼は目的の本屋『寿堂書店』の前に到着した。

自動ドアが静かに開くと同時に、中に入る大獅。
夏の気配の残る昼下がりを走って来たせいか冷房の効いた店内は心地良かったが、今の彼にそれをのんびりと満喫している余裕はない。

すぐに中を見回すが、個人で経営している小さな店なので紋乃を捜し出すのにそれほど時間はかからなかった。

彼女は地図やガイドブックの置かれているコーナーで、何かのガイドブックを熱心にめくっている最中だった。

すぐに声をかけようとした大獅だったが、彼女に近づこうとした途端、何か猛烈な感触、妖気と妄執の入り交じった様な不気味な"何か"を感じて、思わず立ち止まってしまう。

――こ、この気配は!? ――

彼の獣としての勘が恐ろしい程の警告を発していた。
それは今日の朝、刑事課に入ろうとした時に感じた気配と同じものだった。

あの時は微かにしか感じなかったのでさして気にも止めなかったが、今回ははっきりとその感触――違和感とも言えるものを感じていた。
そして、それとは別に彼の鋭敏な鼻も、紋乃のいる辺りから得体の知れない憎悪の感情を嗅ぎとっていた。

それらは、刑事としての彼には――もう一つの表には出せない顔ならともかく――縁の無い筈の匂いであり、感触だった。

もう一つの顔。

そう、彼には刑事としての顔の他に、もう一つの顔が存在する。
それは、神獣として崇められる伝説の獅子、それを恐れ敬う人間の心から生まれた妖怪としての顔であり、この名古屋の地を守護する『草薙剣』を中心とする妖怪ネットワ−ク『熱田神宮・影宮』の一員としての顔だった。

その妖怪としての感覚が、普通の人間である紋乃からは感じられる筈のない気配を感じ取っていたのだ。

声をかける事も出来ずに、入口のところで立ち尽くしてしまう大獅。

しかし、当の紋乃自身は、そんな大獅の様子に気付くでも無く、手にした本を読み続けている。

暫くすると目的のペ−ジを見つけたらしく、笑み――普段の彼女ならば絶対に浮かべないであろう不気味なものだったが――を浮かべると、そのページを破り取って出入口の方――即ち大獅の方へと歩き始めた。

「……お前は誰だ。」

近づいてくる紋乃を睨み付けながら、乾ききった唇を無理矢理開いて、やっと大獅はそれだけを言った。
だが、睨み付けられた紋乃の方は、僅かに首を傾げただけで平然と答えた。

「何言ってるのよ、大獅君。私達相棒じゃないの。」

この二年間、ほぼ毎日の様に聞いている声、しかし何処か違和感を感じさせる声だった。

「ああ。確かに矢賀原は俺の相棒だ。だが、お前みたいな怪しい奴と組んだ覚えはない。いつから矢賀原になりすましている。」
「何言ってるの? 大獅君。私は……。」
「とぼけるな! 他の奴らは誤魔化せても、俺の鼻は誤魔化せん。貴様からは妖怪の匂いがぷんぷん漂ってくるぜ!!」
「……ふむ、流石だな。獣の眷族の鼻は伊達ではないということか。」

大獅の口から"妖怪"の名が告げられた途端、矢賀原――もしくはそう見せている存在――の口調ががらりと変わった。

「だが、勘違いをしているようだな。この体は間違いなくお前の仲間のものだ。私は一時借り受けているに過ぎない。」

自分――正確には紋乃――の体を示しながら、答える。若いのか年老いているのか、男なのか女なのかさえ判らない声で。

「なら、さっさとそこから出ていきやがれ!」

激昂寸前の大獅が叫ぶ。

だが、矢賀原に乗り移っている存在――"彼"――は大獅の言葉にも顔色一つ変えずに返答する。

「そういう訳にもいかなくてな。私にもしなければならない事がある。出来れば、もう暫くばれて欲しく無かったのだが、こうなっては致し方無い。そこをどいてもらおうか? 若き『獅子』よ。」

まだその力をほとんど見せてもいないにもかかわらず、一瞬にして正体を見抜かれたことに、大獅は怒りも忘れて慄然とした。
しかも今、紋乃から感じる気配――気を許すと圧倒されそうになる程強い妖気は、はっきりと大獅自身よりも強大な力を持っている者のそれだった。

全身に緊張感が駆け巡る。

だが、大獅の様子とは対照的に"彼"はそんなことを気にかけた様子はなく、ただ、彼の方を冷やかな目で眺めているだけだった。

――半端な相手じゃない……が、矢賀原をこのままにしておく訳にはいかん!――

「……矢賀原を返してもらおうか。」

萎縮しようとする体を無理矢理奮い立たせると、大獅は紋乃に近づいていった。
それまで大獅の反応を待っていた"彼"だったが、大獅が自分に向かって来るのを見て取ると、

「眷族に手を出したくはなかったのだが、止むを得まい。」

呟いた直後、ほんの一瞬目を閉じる。

――何? ――

紋乃を取り押さえるには絶好のチャンスだった。
しかし、敵を目前にしているとは思えない"彼"の奇妙な振る舞いに、大獅はほんの一瞬逡巡し、立ち止まってしまう。

そして、それがこの場の命運をわけた。

大獅は紋乃に取り憑いている"彼"に意識を集中するあまり、その時の周りの状況を全く見ていなかったのだ。いつの間にか店にいた客――学校帰りの高校生や、暇つぶしに来ていた主婦、昼休みに冷やかしに来ていたサラリーマンなどが、二人の周りに集まっていたことさえも。

「……押さえろ。」

"彼"の呟きに答え、周りの者達が一斉に動き出す。
その瞳には自らの意思は感じられず、"彼"の操り人形になっていることは明白だった。必死に払いのけ、押し返す大獅。

このさして広くもない店の中で、幾人もの操られている人間を相手取っての戦いとしては上出来と言って良いものだろう。

しかし、いかんせん人数が多過ぎる。
まして彼らは操られているだけであり、そんな人間達を傷つけることは大獅には出来ない相談だった。
その後も暫くの間は持ちこたえたものの、結局、大獅は人々に押さえ込まれてしまう。
床に押さえつけられた彼を見下ろしながら、"彼"は言った。

「私はこのような愚か者達とは違う。故にお前の命を奪いはしない。暫くの間おとなしくしていてくれれば十分だ。」

そして"彼"は大獅に背を向けて歩き始めた。出口に向けて。

「待てぇ! 貴様ぁぁぁ!」

立ち去ろうとする紋乃――もしくは"彼"――の背に大獅の叫びが突き刺さるが、"彼"はもはや振り返らなかった。自由を奪われている今の大獅には、ただ叫び続けることしか出来ない。檻に捕らわれた猛獣の如く……。
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