「やっぱりあいつ、怒ってるだろうなぁ。」

彼らしくもない気弱なぼやき声を発しながら、皇城大獅は刑事課に続く廊下を歩いていた。

前日の『お見合い』の件で相棒をいたく怒らせてしまった彼にとって、今日――土曜日の出勤は心弾むものではなかった。
何人か知り合いの警官にも会ったが、挨拶にもいつもの元気がなく、事情を知らない者に首を傾げられたり、少なからず訳を知っている者からは苦笑されたりしていた。
とは言え、今の大獅にとってそんなことは直面している問題――相棒の機嫌――に比べたら些細な事である。

何故なら、彼はこの二年程の付き合いで、自分の相棒が一度機嫌を悪くすると、どれ程まずい事になるか身に染みて知っていたからだ。
どう話しかけ、機嫌を直させるか、ここへ来るまでも必死に考えてみたが、結局ろくな考えは浮かばない。

そして、そうこうする内に刑事課のドアの前に着いてしまった。

――うう……開けたくない…… ――

普段なら何も考えずに開けるドアが今日に限っては妙に重く感じられ、自分の気分の重さを再認識する。
――ええい、畜生! ――

無理矢理ふんぎりをつけると、一気にドアを開いて部屋の中に入った。

「おは……」

いつも通りの挨拶をしようとする大獅だったが、一歩課内に入った途端、何か普段と違う異質な雰囲気を感じ、思わず入口で立ち止まってしまう。

――何だ!? ――

「よう、大獅。おはようさん。」

同僚の刑事から声をかけられるまでその場で突っ立っていた大獅だったが、はたと気が付いた時には、既に課は普段通りにしか見えなかった。

奇妙に思いながらも、とりあえず自分の机に荷物を置くと、何か書き物をしているらしい矢賀原のことは――当然気にはなったが――後回しにして、課長のデスクに向かった。

高宮課長は既に仕事を始めており――彼女は常に課の誰よりも早く出勤しており、遅刻した姿を見た者は課内では誰一人としていなかった――、大獅が挨拶をするとちらりと彼の方を見上げ、

「おはよう。」

とだけ応えると、またすぐに見ていた書類の方に目を落とした。
そして、その書類にちょっとした書き込みをしながら、

「昨日のことは聞いているわね?」

と尋ねてきた。

無論、昨日の事件については夜中の内に連絡を受けて知っている。
よりによって自分のいない時に、と思って口惜しくもあったが、今となっては仕方がなかった。

「申し訳ありません。こんな重要な事件のあったときに駆けつけられないとは……。」

出来る限り平静に努めた、しかし駆けつけられなかった悔しさがはっきりと感じられる口調で、大獅は高宮課長に謝罪する。

だが、当の課長はそんな彼の謝罪をさして気にした様子も無く、普段通りの口調で、

「別にいいのよ、無理に休暇を取らせたのはこっちなんだし。それよりもあの子の方が遙かに問題よ。」

と言うと、矢賀原の方に目線を向ける。

「あの子、昨日の捕り物の最中にミスをしでかしたの。結果、大した怪我人もなく密輸組織も一網打尽に出来たんだけど、自分自身のミスのせいで怪我したらしくって。今朝、出てきてからもずっとあの通りなのよ……。」

課長の目線に先にいる紋乃は黙然と机に向かっており、確かにいつもの彼女らしくなかった。
良く見ると若草色のスーツから出ている手首には、僅かに包帯らしきものが見える。

「昨日の報告は後でいいわ。今はあの子の所に行ってやりなさい。」

それだけ告げると、課長は再び書類に向かい始めてしまった。
仕方が無く、大獅は紋乃の傍――と言っても彼女の机は彼の隣だったが――に向かう。

「よ、よお。昨日は大変だったらしいな。」

言っている彼自身にもわざとらしいと思える様な口調で話しかけた。
だが、声をかけられた当の紋乃は、彼の言葉に大した反応も示さず、

「ええ。」

と素っ気ない返事を返しただけで、また机に向かって先程から書いている昨日の報告書を埋め始める。
自分の方を振り向きさえしない彼女にそれ以上話しかける口実を見つけられず、仕方なく彼自身も自分の机について仕事を始める。
しかし、それからものの5分もしない内に入口のドアが開くと、だいぶ疲れた顔をした稲生刑事が入ってきた。
彼は皆への挨拶もそこそこに課長の所に行くと、小声で何か話し始めた。
大獅の席からは詳しい内容は聞き取れなかったが、どうやら昨日捕まえた密輸組織のメンバーの取り調べに関しての事らしい。
課長は暫く稲生刑事と話していたが、やがて課の刑事全員を集めた。

「昨日の連中の取り調べは現在も港署の方で続けられているそうよ。でも、状況は芳しくないらしいわ。証拠は押さえたんだけれど、背後関係については思った以上に口が固いらしくて。」

面白くもなさそうに課長が状況を説明する。

「組織の報復を恐れているのかもしれないけれど、中々口を割らないそうよ。生意気に黙秘権まで使ってね。決着がつくにはもう暫くかかるでしょうね。」

稲生刑事からの報告と思われる内容をため息混じりに伝えると、課長は全員を仕事に戻らせた。
大獅にとってその事件は当然気になる事柄だったが、まず隣の相棒の機嫌を直すことが先決だろうと思われた。

しかし、機をみて何度か話しかけてみたものの、紋乃の返事は決まって素っ気ないものだった。
自分の方を向いてさえくれない為、まともな会話をすることも出来ず、結局大獅は午前中一杯を、針の筵の上にいる様な気分で過ごしたのだった。
だが、辛抱が報われたか、彼にとって救いの音と言える音が聞こえてきた。

そう、昼休みを告げるチャイムだ。

これを利用しない手はない、と息苦しい雰囲気の中ずっと考え続けていた大獅は、ここぞとばかりに、

「おお、やっと昼か。矢賀原、昼飯食べにいこうぜ。昨日のお詫びに何か奢るからさ。」

と隣の相棒に声をかける。
実は、朝から二人の気まずい雰囲気を肌で感じていた他の刑事達も、彼の台詞には耳を傾けていたのだが、今の大獅はそんな事には全く気付いていなかった。

――よっしゃ!! これなら絶対に矢賀原の機嫌は直る! ――

大獅は勝利を確信していた。
彼の知る紋乃であれば、この誘いに乗ってこない筈はない。
給料日前の財布には少々きつい出費になるかもしれないが、それでこの嫌な雰囲気が解消されるなら安いものだと思えた。
しかし、『無敵艦隊』と称されたスペイン艦隊は壊滅し、『常勝』を詞われたナポレオンも敗北した。
この時、彼が『必勝』を期して放った『切り札』と言える台詞も、当の紋乃にはかけら程も通じる様子は無く、あっさりと打ち砕かれてしまった。
紋乃は大獅の言葉にもさしたる反応を示さず、

「いらない。」

とだけ呟く様な声で言うと、刑事課から出ていってしまったからだ。

そして、後には呆然とする大獅と、その後ろで首を振ったり、「あーあ。」とため息をつく刑事達だけが残されていた。

*******

熱田署内の食堂は土曜日ということもあって、普段に比べると人は少なかったが、それでも昼時には、かなりの数の警官達が昼食を摂りに来ている。
そんな人込みの中には、困り果てた顔をしている大獅の姿も見受けられた。
結局、あの後暫く待っても紋乃が戻らなかったので、仕方がなく一人で昼食を摂りに来た大獅だったが、当然食欲など湧く筈もなく、4日前の再現の如く昼食のA定食――幕の内弁当風の定食――を食べるでもなしにつついているだけだった。

「ここ、いいか?」

食が進まず、窓からの景色をぼんやりと眺めている大獅の前に、突然人影が立ち、声をかけてきた。

「どうぞ。」

普段の元気が感じられない大獅の返事に応えて彼の前に座ったのは、『刑事課の生き字引』の異名をとる男こと、稲生刑事だった。

「元気無いじゃないか。」

自分の昼食のきつねうどんに唐芥子を振りながら、稲生刑事が話しかけてきた。

「そうですか。」

相変わらず定食をつつきながら――口には殆ど入れていない――大獅は答えた。

「ああ。まあ、矢賀原の方は昨日のアレがあるから無理もないかもしれないが、お前さんまでそれにつられてちゃ、しょうがないんじゃないか?」
「いや、別に俺は……。」

反論しようとする大獅を遮って稲生刑事が続けた。

「なぁ、大獅。お前さん、相棒って奴をどう思ってる?」
「相棒、ですか?」

思いがけない問いに、知らずに顔を上げて尋ね返す大獅。

「そうだ。矢賀原個人でも構わんが。」
「ええっと、まぁ、仕事上のパートナーですか。で、常に相手の行動をサポートし合って、職務をこなす……。」

大獅の顔をじっと見ながら聞いていた稲生刑事だったが、やがて一つ頷くと、

「大筋では間違っちゃいないな。で、お前さん、矢賀原と組んでどの位になる?」

と更に尋ねる。

「もうじき2年になりますが……。」
「そうか。お前さん、たかだか2年一緒にいただけで、それまで全く見ず知らずだった人間に都合良く動いてやるなんて、出来ると思うか?」
「いや、その、解りません。」

大獅の答えを全く気にせずに、稲生刑事は続けた。

「多分、お前さんは、自分が矢賀原に相談もしないで見合い話を受けちまって、その上、自分のいない間に奴が怪我をしちまったことに負い目を感じてるんだろうがな、いいか? お前さん位の頃なんてな、他人の心なんざ、それがいつも一緒に居る奴であっても、解らなくて当然なんだよ。お前さんには矢賀原が何を考えてるのか判らなくて当たり前だし、逆もまた然りだ。だがな、相手の心が判らなくてうまくいかなくても、こんな所でくすぶってるようじゃ、何も解決せんぞ。判らんなら聞けばいい。お互いに納得出来るまでとことん話し合えばいい。」

そこまで言うと、『刑事課の生き字引』は大きなため息をついた。彼自身にも何か思い当たることがあるのだろうか。

「その位やってようやく、『ほんのちぃっと』判ったか?って程度だったからな。俺の場合は、だが。」
「そう、ですか……。」

――俺は人間じゃないんだが…… ――

心から湧き上がる反論を押さえ込みつつ、大獅は答えた。

「ああ。俺がお前位の頃なんて、意見の合わない奴とはよく殴りあったもんだ。不味い飯も食ったし、朝日が昇るまで酒を酌み交わしもしたな。次の日は地獄の二日酔いになってな。それだけやったって、相手の考えてる事なんてそうそう解りゃしなかったからな、結局。それに、」

一度言葉を切った上で大獅をねめつける様に見ると、稲生刑事は更に続けた。

「元々お前さん、うじうじ考えるのは得意じゃないだろう? なら、面倒なことは放っといて、とにかくやりたいようにやってみろよ。そうすりゃ意外にうまくいくかもしれん。"暴走刑事"って名ははったりじゃないんだろ?」
「……解りましたよ。とにかく出来るだけはやってみます。」

踏ん切りをつけたかの如く、大獅が答える。

「でも、"暴走刑事"は勘弁して下さいよ。激励にしちゃあ随分な言い様じゃないですか。」

稲生刑事の言葉にささやかな反抗を試みるが、された当人はそんな大獅の台詞をひと睨みだけで黙殺すると、

「当然だろう。目の前の甲斐性なしのせいで、柄でもない真似をさせられてんだから。」
「甲斐性なしって……俺のことですか?」
「つまらんこと言ってないで、さっさと矢賀原探してこい!」

テ−ブルに拳を叩きつけながら、稲生刑事が怒鳴り声を上げる。

「はいっ!」

叱咤を受けた大獅は飛び上がるように食堂を駆け出して行く。
周りの警官達が驚いた様な顔つきで彼らの方を向くが、駆け出していった『暴走刑事』と駆け出させた『刑事課の生き字引』が目に留まると、元通り昼食に戻ってゆく。

どうやら、この熱田署内ではよくある光景のようだ。

「まったく、世話の焼ける奴だ。図体ばかりでかくなっても中身はちっとも変わりゃしねぇ……。」

ぶつぶつ呟きながら、冷めかけたうどんをすする稲生刑事の耳に、

「本当にねぇ。」

と相槌を打つ声が後ろから響く。

驚いた稲生刑事が振り返ると、そこにはいつの間にか高宮課長が笑いを堪えるような表情で立っていた。

「聞いてたんですか? お人が悪い。」

照れ笑いを浮かべながら抗議の声を上げる稲生刑事に、課長も笑って答える。

「ごめんなさいね。でも、私もあの子達のこと、放って置けなくて。」
「図体は一人前でも、中身はあれですからね。」
「本当にねぇ。……でも、これでうまくいくかしら?」
「うまくいって欲しいもんですな。俺がついていながら矢賀原に怪我させちまいましたからね。少しは連中に手でも貸してやらないと、後味が悪くって。」
「素直じゃないわね。本当はうまくいって欲しくてしょうがないくせに。昔の自分が不器用だったからって。」
「……あねさん。」

口許を抑えながらからかう課長に、稲生刑事の顔が渋くなる。

「ちょっと言い過ぎたわね。御免なさい。……でも、あの子達、本当にうまくいくかしら。」

大獅の駆け出していった先を眺めながら、稲生刑事が呟くようにいった。

「うまくいくでしょうよ。あいつらならね。」

口ではこの場にいない大獅達をこき下ろし、ふざけた口調で話しながらも、二人は大獅の駆け出していった先を眺め続けていた。それぞれの想いを込めて。
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© 1997 Member of Taisyado.