3日後。

金曜日の日中、刑事課は静かだった。
夏が終わり、秋の兆しが見え始めた季節、昼下がりには心地良い風が室内に吹き込んでくる。
風に吹かれるままにうたた寝でもしたら気持ち良いのだろうが、この日の刑事課にそれを実践しようとする者は一人もいなかった。
無論、書類の決裁をしている課長の存在もあったのだが、今日に限ってその理由は別の所にあった。

カリカリカリ、……くしゃくしゃ。カリカリカリ、……くしゃくしゃ。

"その理由"の座っている場所からは、先程から何か書いては丸めて捨て、また書いては丸めて捨てているらしい音が、延々と続いている。

言うまでもなくそこにいるのは、相棒がお見合いで休んでいる為パトロ−ルにも出られず(他の刑事達は今の彼女と組むのを揃って避けていた)、止むを得ず署内で書類の作成をしている矢賀原紋乃刑事だった。

この場にいない相棒とは異なり、彼女は特に事務の仕事を苦手としていない。
しかし、普段ならばほんの十分で書き終えてしまう様な書類を、今日に限っては、既に一時間近くも書き終えられずにいた。

時間と共に彼女の苛立ちは募っていき、部屋の空気には緊張感が増してゆく。

とはいえ、それ自体は些細な事であり、彼女の不機嫌と他の刑事達のストレスを除けば熱田署内は概ね平和だった。

だが、その平和が突然破られた。

プルルルル!!

それまで、静寂を保っていた刑事課の電話が、突然鳴り響く。
課内の殆どの刑事達が電話に手を伸ばす中、受話器を取ったのは課内一の古参刑事である稲生玄刑事――通称ゲンさん――だった。

「はい、刑事課。え、はい。判りました。少々お待ち下さい。課長、お電話です。」

電話を取り損ねた他の刑事達が、渋々といった感じで各々の机に戻る中、稲生刑事から電話を引き継いだ高宮課長の声だけが刑事課に響いた。
彼女は暫くの間電話の相手と話していたが、やがて電話を切ると課内の全員を自分のデスクに集めた。

「今、港署の方から連絡があったわ。話は聞いてると思うけど、あっちで前々から内偵していた、東南アジア系の密輸組織に関する情報が入ったらしいの。それによると、今夜零時頃に、名古屋港のコンテナ地域で国内の組織との商品の受渡しが行われるそうよ。中身はおそらくワシントン条約違反の象牙や毛皮、剥製等。その現場を押さえる為に市内各署に対して応援要請を行っているらしいわ。」

例えそれまでがどんな状況であっても、一度事件となれば課内の全員の顔が厳しく引き締められ、動きに躍動感が生まれる。それが刑事課の刑事課たる所以であり、大獅や紋乃、ヤンスと言った、能力はあるが、一癖も二癖もある連中の集まる要因ともなっていた。

良く言えば精鋭部隊、悪く言えば愚連隊。それが『熱田署刑事課』である。

「以上の理由により、ただ今から、熱田署刑事課は港署の応援に向かいます。何か質問は?」
『ありません!』

期せずして、ほぼ全員がそろって返事をかえす。

「よし。では早速、港署に向かいなさい。」
『了解!』

紋乃と玄を除く刑事達がやけに元気良く答えて動き出す中、彼女も気を取り直すかの様に表情を引き締めると、出入口に向かって歩き出した……。

*******

夜の帳が降りた名古屋港は静かだった。
遙か遠くに見える街の明かりを除けば極めて暗く、ひっそりとした場所だった。

既に午後11時を回っている。

こんな時間ともなれば、このような人気の無い場所に来る物好きはまずいないだろう。何かしらの目的のある者達を除いては。
海の見える位置にある倉庫の影に、隠れる様に車を停めているこの二人、矢賀原紋乃と稲生玄もそんな者達の内にいる人間だった。

本来ならば彼女の隣にいるはずの刑事、皇城大獅とは結局連絡が取れていない。その為、彼女は急遽稲生刑事と組んで張り込みをすることになったのだ。

昼過ぎ、熱田署の刑事達が命令を受けて港署に着く頃には、既に港署の刑事課では警官の配置場所が検討され始めており、彼らも慌ただしくそれに加わった。そして夕方の配置決定後、すぐに各自、自分の分担場所について見張りを始めたのだった。

まだ、大獅のことが少なからず気になっている紋乃だったが、今はその事からは気を逸らして、見張りに専念しようとしていた。

何気無くス−ツの内側に手が伸びる。

そこには署を出るときに貸与された拳銃がホルスタ−に収められて出番を待っている。
大獅ならばそんな物の存在など、どうでもいいかの如く振る舞っただろうが、今の彼女にはそれが必要になるかもしれない状況が、極めて重くのしかかっていた。

表面上、紋乃は平静を装っている。
しかし、いつも隣にいる大獅ならばともかく、今日隣にいる稲生刑事には、そんな彼女の内心など手に取るように判るらしく、

「まだ、予定の時刻には多少間がある。少し横になって休んでいろ。」

と、子供でも相手にしているかの様に扱われてしまう。

「いえ、でも……。」
「隣にいるのが大獅の奴でないと不安か?」
「そんなことはありません!?」
「なら、少しは楽にしていろ。気を張りっ放しだと、保たないぞ。」
「判りました。じゃ、少しだけ……。」

からかう様な口調の稲生刑事の言葉に、必要以上に過敏に反応しつつ、紋乃は座席のシートを倒して横になった。
しかし、今まで緊張して見張りをしていた者が横になったからと言ってそう簡単に眠れる訳がない。
横になった彼女の心中には、様々な想いが渦巻いてゆく。

――まったく、今頃何処で何してるんだか! ――
――必要な時にいないんだから。大獅君ってば! ――
――あの唐変木! ――

心の中で悪態をつきつつも、いつしか想いは大獅の方に向いてゆく。

――……大獅君、か…… ――

コンビを組み始めた二年前の事が頭に浮かぶ。

――ぶっきらぼうで、無神経で、そのくせ情に脆くて――
――組み始めたばかりの頃は喧嘩ばっかりだったけど…… ――
――和広の騒ぎの時にも、親身になって相談にのってくれたし――
――いつも何も考えないで突っ込むくせに、何か人には言えないことを隠してるような――
――前に噂で聞いた、夜に栄を凄い美人と歩いてたって噂、本当なのかな? ――
――普段は喧嘩しかしないのに、いなくなると何かやりにくいのよね…… ――

「……矢賀原。」

――やだ!? 何で私、あんな奴のことばっかり考えてるのよ! ――

「おい、矢賀原。」

――あんな朴念仁のことなんて別に…… ――

「矢賀原! 飯だぞ!」
「えっ、あ、はい! って?」

稲生刑事の声で、紋乃の悶々たる懊悩は破られた。
はっ、とした表情で隣に向き直る。

「考え事の最中に悪いが、あれを見ろ。」

辺りにはさしたる明かりも無い為、はっきりとは見えないが、彼の指差す方向にはいつの間にか三台程の黒塗りの乗用車が停まっていた。無論、先程までそんな車は全く見当たらなかったし、近くを通ったのならばエンジン音を聞き逃す筈が無い。

その乗用車の停まっているのは、彼らの停まっている倉庫から50メ−トル程離れた倉庫。先程まで閉まっていたその入口が、今は僅かに開いているのが見てとれた。

「こちら、熱田署移動4号。目標とおぼしき集団を発見。これより確認に移る。」

隣で稲生刑事が港中に散っている他の刑事達に連絡している間、紋乃はその倉庫をじっと見張り続けていた。
闇に目が慣れた今では倉庫の近くで何か物を運んでいる人影まで見ることが出来る。

「とりあえず、俺たちは他の連中が着くまでに、奴らの行動の監視だ。」

無線連絡を終えた稲生刑事から早速指示がとぶ。
車から降りた二人は表と裏とに分かれて、中にいる人数の確認や現場を押さえる証拠の位置を調べる為に、倉庫に近づいていった。
出入りの激しい表の方は稲生刑事が当たり、紋乃は裏口から出て来たり、入って行ったりする人影が無いか見張ることになった。
間違っても中に聞こえる様な物音を立てる訳にはいかない。嫌が上にも緊張感が高まってゆく中で、紋乃の脳裏には知らぬ間に相棒の顔が浮かんでいた。

――まったく、間が悪いわよね。こんな大捕物のある時に限っていないんだから――

心の中で仏頂面を浮かべる大獅に思わず笑みを浮かべる紋乃。だが、そのせいでほんの一瞬注意力が薄れ、足元に転がっている空き缶に軽く靴が当たってしまう。

カラン。

たいして大きな音ではなかった。

昼間であれば港の機械音にでも紛れてしまう位の音だろう。

しかし、今は夜中。波の音位しか聞こえない、しかも中の者達が見張っているであろう場所で立てる音としては、少しばかり大き過ぎた。その上、彼女は中を見張る為、既にかなり倉庫近くに接近してしまっている。

缶の転がる音に反応して、倉庫の中が騒がしくなる。そして、彼女の方に向かって何人かの人影が走ってくる。見れば着ている背広の中から何かを取り出し、彼女の方に向けている。

――来る! ――

殺気を感じた紋乃が身をかがめた瞬間、

パン。パン。パン。パン。

爆竹でも鳴らしているかの様な甲高い、しかしその一つ一つが十分に、人、一人を殺害できるであろう危険な音が、倉庫内に木霊する。

とっさに近くにある木箱の影に駆け込む紋乃だったが、それが返って裏目に出た。
そこに逃げ込む紋乃を見つけた彼らは、迷うことなく彼女の逃げ込んだ木箱の山に向かって発砲し始める。そのせいで彼女はそこから一歩も動けなくなってしまった。
今更自首を呼びかけた所で、彼らがそれを聞くとは思えない。

応援が着くまで何とか持ちこたえようと脇のホルスタ−から銃を取り出し、威嚇のつもりで何発か発砲する。

しかし、それに応えたのは更に激しさを増した銃弾の嵐だった。

既に表にいる筈の稲生刑事が異変を察知しているだろうが、応援が到着するまでは彼にも手の打ちようが無いだろう。

万事休すと言える状況に追い込まれ、心の中で悲鳴を上げる紋乃。

だが、彼女の悲鳴に応える筈の相棒はこの場にはいない。

今まさに、彼女の命は風前の灯火であるかに思えた。

 バキャッ

鉄骨に当たって跳ね返った銃弾が彼女の隠れている木箱の一つを直撃する。

それまでも何発もの銃弾を浴びていた木箱はとうとう粉々に破壊され、破片と共にその中身がコンクリ−トの床に散乱し、その幾つかは紋乃の身にも降り注ぐ。

飛び散った物は本来ならば立派な証拠物件に成り得る品々、貂の毛皮やら、象牙細工やら、水牛の角やらだった。
しかし、折角の品々も今の彼女を救う役には立たず、本来の持ち主達も折角の商品が傷つくことも気にせずに、それまでにも増して激しい銃弾の雨を降らせてくる。

ここまでくると、もはや紋乃から反撃の気力は失せていた。今の彼女は、警官としての誇りとは無縁の一人の女に過ぎない。

だがその時、

――力を貸してやろう――

今や、その命は風前の灯火と思われた彼女の心に、突然何者かが語りかける。

「何!?」

突然の声――と彼女には思えた――に驚く紋乃。だが、近くに人影は見えない。辺りにあるのは響きわたる銃声だけだ。
一瞬注意の逸れた紋乃の近くに、再び銃弾が炸裂する。

――キャアアアア! ――

心の中で悲鳴を上げた時、今度は何者かが直接、紋乃の心に触れた。そして、それに疑問を挟む暇もなく紋乃の心は蝕まれ、闇に沈んでいった。

蝕んだ"彼"の歓喜をかすかに感じながら……。
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