コッコッコッコッ。

清潔感のある白で統一された、だが日の光が入らない為薄暗い廊下に、規則正しい靴音が木霊する。

その靴音の主は、名を皇城大獅と言った。

熱田署刑事課に勤務する彼は、それなりに有能ながらも一風変わった性格の男として知られている。

曰く、熱血漢。曰く、単細胞。曰く、猪突猛進……。

数ある彼に対する評価の一つに、『あまり服装を気にしない男』というものがあったが、今日に限っては珍しくネクタイをきっちり締め、身だしなみも完璧と言える程整えている。そして、いつもなら精気に満ちあふれている顔に、いくらかの緊張の色が見られる。

同僚の警官たちとすれ違えば怪訝な顔をされただろうと思われる位、今日の彼はいつもと違っていた。

彼は今、熱田署の三階にある応接室に向かっている。事情を知らない者ならば、それだけのことで、と訝しんだことだろう。

だが、熱田署の応接室は普通の会社や役所、警察署の応接室とは少しばかり異なっていた。

と言っても、別に部屋の作りが変に異なっている訳ではない。

その部屋自体は、極普通の応接用のテ−ブルと椅子があり、日によって何かしらの花が常に生けられているというだけの場所である。

実際、普段は外部からの来客のもてなしに使われるという、普通の部屋に過ぎない。

しかし、その部屋に熱田署の署員が呼ばれる時にだけ、少し事情が違ってくる。

その部屋に呼ばれた、ある交通課の警官は、県警本部への栄転を告げられて小躍りしながら退室してきた。ある少年課の警官は、翌日からの交番勤務を命じられ、肩を落として出てきた。

つい先日も、大獅の直属ではなかったが、上司の一人が、何故か愛知県警から沖縄県警への配転を命じられた所だった。県警本部への移転なのだから、本来は栄転なのだろうが……彼にとってそれが幸福だったかどうかは極めて疑問だった(そもそも、普通ではあり得ない様な配置転換だった)。

いずれにせよ、熱田署の応接室は、そこに呼ばれた警官に人生の好転、又は暗転を告げる『魔の部屋』として、署員に恐れられている場所なのだった。

彼自身には特に仕事上で大きなミスを犯した覚えはなかったが、これから行く部屋のジンクスを思うと平然としてはいられなかった。
そして、それが嫌が上にも、彼にきちっとした恰好をさせる理由となっているのだった。

そうこうする内に彼は部屋の前に辿り着いた。いや、辿り着いてしまった。
『応接室』と銘打たれた裁きの間に。

――とうとう、来ちまったか――

入口の前に来た所で思わず躊躇しそうになるが、恐れを振り切るように深呼吸すると、思い切ってノックをする。
そして、中からの返事を待って部屋の中に入った。
廊下とは打って変わって明るい室内には、二人の人物がいた。

一人は彼の良く知っている人物、直属の上司である高宮清香刑事課課長――通称「姐御」――だったが、もう一人は顔こそ知っていたが彼とは直接関係のない人物、防犯課の課長である沖間草助だった。

彼、沖間草助は大獅の知っている限りでは、巡査から叩き上げでここまで出世し、平刑事時代には荒っぽい捜査で手柄を立て、特に市内の暴力団からは「鬼」と呼ばれて恐れられていたという、かなり『いわく付き』の人物だった。

とは言え、本来大獅とは無縁の人物で、彼の知る防犯課長とは、昔の粗さがなりを潜めた今は、特に有能とも無能とも――大獅自身の上司と比べて――言えない他の部署の上司、と言うだけの存在だった。

「おお、良く来てくれた、皇城刑事。まぁ、まずは座ってくれ。」

部屋の入口で困惑している大獅を見て、沖間課長が声をかけてくる。
突っ立っていても仕方無いと思い、勧められたソファーに座りながら、どうやら自分を呼んだとおぼしき防犯課長の隣に座っている自分の上司、高宮課長の顔をちらりと眺めやってみる。

だが、彼はすぐに自分自身の行為を後悔することになった。

何故なら、普段は理知的且つ優雅な微笑みで飾られている高宮課長の顔が、今日に限って困惑と謝罪の表情を浮かべていたからだ。

思わず戦慄に近い感触を覚える大獅。

――何かある! ――

彼の、獣の勘とでもいうべきものが必死で警告を発していた。
この部屋に呼ばれた時点で何かあるとは思っていたが、どうやら彼の予想を十二分に超えるであろう事柄が今日の呼び出しには隠されているらしい。

「仕事中に呼び出したりして、済まなかったね。」
「い、いえ。この所、刑事課は暇でしたし、もうすぐ昼休みでしたから。」

待ちかねていたかの様に話しかけてくる沖間課長の言葉に適当に相槌を打ちながら、向かいに座る高宮課長の顔を問い詰めるかの様に眺めやる。
だが、そんな大獅の無言の問いにも、彼の上司はただ、隣の沖間課長――今はとりとめのない世間話を続けている――にちらりと視線を走らせて肩をすくめるきりで、答えらしい答えを返してはくれなかった。

大獅の心中の不安はますます高まっていった。

「……それで、今日、君を呼んだのは他でもない。」

ようやく、無意味に長かった前置きを終えて、沖間課長が本題に入る。

「はい。」
「男の、いや、男に限らないが、人間にはその人生においてしなければならない事が二つ ある。一つは無論『仕事』だ。仕事をせずして何の人生か! 君もそう思うだろう?」
「はぁ。」

何を言いたいのか判らない問いに、思わず間の抜けた答えを返す大獅。
しかし、当の沖間課長は、そんなことを全く気にする様子も無く、先を続けた。

「しかし、ただ、仕事ばかりであってもいかん。それでは人生そのものがつまらないものになってしまうからなぁ。そこで、人生で大切なもう一つの物の出番となる訳だ。それが何か、判るかね?」

判るはずがなかった。
満面の笑みを浮かべている沖間課長の顔を眺めてみるが、無論、そんな所に答えがある筈も無い。必死に答えを考えてみるが、やはり思い浮かぶものは無かった。

――判るはずねぇだろ!! ――

心の内の反論を押さえ込みつつ、真顔で答える。

「いえ。自分には判りかねます。」
「そうかそうか。いや別に構わないのだよ。では、これをちょっと見てくれるかね。」

大獅の答えに気を悪くした様子もなく、むしろその答えを待ち構えていたかの如く、彼は傍らの鞄から大きめの封筒を取り出した。

そして更にそれを開き、中から二つ折りの厚紙――桃地に菊と思われる金糸の花の柄が意匠されている――を取り出すと、それを大獅に向けて差し出す。

事情はさっぱり判らなかったが、異様な緊張感が彼を支配する。

トクン、トクン、トクン、トクン。

自らの心音をやけに大きく感じながらも、とりあえずそれを受け取って開いてみる。

「こ、これは!?」

厚紙の中を見て、その表情が凍りつく。
彼がその中に見出したものは一体……。
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