序章
<それ>はただ一人だった。
<それ>は闇の中にいた。
そして、<それ>はただ一つの事だけを思っていた。

――憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い…… ――

そう、<それ>の心は、自分の命を奪った者達に対する憎悪のみで占められていた。地の底から湧き出す溶岩の如く、熱く煮え滾った憎しみで。

かつて、<それ>にも命があった。

その意味では<それ>を<彼>と呼んでも良いのかもしれない。今はどうあれ、以前は自由に動く体を持っていたのだから。

しかし、過去がどうあれ、現在の<彼>はただ、元の体の一部に意識のみで留まる存在に過ぎない。威容を誇った肉体も、遙か彼方まで見通した瞳も、数多の獣達を従わせた力も、全て失っていた。

<彼>に残されたのは心だけだった。

しかし、それら全てを失ったが故に、その心だけが大きく、激しく、膨れあがっていた。いびつな歪みを伴って……。

<彼>は憎悪に猛りながらも、じっと待っていた。彼は知っていたのだ、己を殺めた者達が、いつかは<彼>を自由にすることを。それもそう遠くない内に。何故なら、<彼>はその為に殺されたのだから。

<彼>は待ち続けた。

闇に閉ざされたせいで時の流れは分からなかったが、それでも<彼>は耐え続けた。
<彼>には耐え続ける事しか出来なかったから。

そして、ついにその時が訪れた。

目も耳も失った今の<彼>には、周りで何が起きているのか知る術は無い。
しかし、近くに何者かがいることだけは分かった。そして、今の彼にはそれだけで十分だった。

それから暫くして、闇がほんの少し薄らいだかと思うと、<彼>は叩きつけられるような衝撃を感じた。どうやら外に投げ出されたらしい。

地面にぶつかった衝撃は小さなものでは無かったが、今の<彼>にとって、それは些細なことだった。何故なら<彼>の心は待ち焦がれた解放感と、何より甘美な復讐の予感に酔いしれていたから。

すぐに<彼>は、自らに唯一残された感覚、同時に復讐の手段でもある精神の網を周囲に張り巡らせた。
程無くして、何者かがその網に触れるのを感じる。

今のままでは、彼自身では身動き一つとることが出来ない。自由を取り戻す為にはどうしても、他の生物の力を一時でも手に入れなければならなかった。

――力が無くても構わぬ。動くことさえ出来れば――

それはさしたる力を持たぬ、人間の女だった。だが、今の<彼>にとってはそれで十分だった。

その上、その女の心は迫り来る恐怖に千々に乱れている。その内に入り込むことは、<彼>にとって造作もないことだった。

――力を貸してやろう――

救いを求める声に応えるかの如く告げると、<彼>はその心の中に侵入していった。見る自由、聞く自由、動く自由を取り戻すべく……。
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