目を開くと、彼の目の前には一軒の古びた屋敷があった。まだ、辺りは霧に包まれていたが、目の前の屋敷には幻とは思えない存在感があった。
笙はゆっくりとその屋敷――"迷い家"の本体――に近づいた。

「ようやく辿り着けましたね。」

家にむかって静かに語りかける。
答えは直接、心に響いてきた。

――来訪者よ、何故我の幻をかき乱そうとする? ――

多少の驚きを感じながら、笙も心の中でそれに答える。

――貴方が幻を見せている人々を放っておく訳にはいかないからです。いかに彼らが望んだ事であっても、人はいつまでも幻にしがみついている訳にはいかないのです――

――我が幻を見せた者達は皆、心を病んだり、不安を抱えたり、どうしようもない現実に疲れた者達ばかりだ。彼らには心の安らぎが必要なのだ。それを望む『想い』から我は生まれた。故に我は彼らの願いを叶えねばならない――

――仰りたい事はわかります。私達は人々の想いから生まれる者です。ですから人に望まれた様に生きていくのが自然なのでしょう。しかし、その自然な生き方が時として、我々を生み出した人間を傷つけてしまうこともあるのです――

――我のしていることが人を傷つけていると? ――

――人間は、特にこの街のようなたくさんの人々が住まう場所においては、晴らされない悩みや、叶えられない望みを抱く者が多いことでしょう。でも、その悩みや望みを一つ一つ乗り越え、叶えていくことで、人間は変わっていくのです、己自身の力で――

"迷い家"は口を挟むでもなく、彼の言葉に耳を傾けている。

――もし、私や貴方の様な者が一々それらに手を貸していたら、人間は自らの手で困難を乗り越えようとする意思を失ってしまうでしょう。そして、それは私達の様な者の存在にも係わることなのです――

――我々の様な者が存在する為に、そして、何より人間自身がその想いを失ってしまわない為にも、私達は無闇に彼らに手を貸す訳にはいかないのです――

笙は伝えられる限りの自分の考えを"迷い家"に伝えてゆく。

―― …………… ――

迷い家の方は先を促すかの如くに、黙り続けている。

――先程、貴方は一人の少女を霧の中に取り込みましたね。彼女が夜の公園で何をしていたか御存知ですか?――

――何をしていたかは知らぬ。だが、あの娘は己の飼っている犬の事を強く想っていた。故に我はその幻を見せた――

――あの少女は、迷子になった飼い犬を捜していたのです。別に彼女自身が捜し回らなくとも良かったはずなのです。周りの大人に頼めば協力してくれる者もいたことでしょう。でも、彼女は一人で捜しに来たのです。あんな小さな体で、寒い夜の中を。それ程に、彼女にとってのその犬は、大切な存在だったということです――

――今宵は人間達の言うクリスマス、想いの力が高まっている。それ故、我は多くの者達の望みを叶えたつもりだった、かりそめの物であっても……――

――人々は皆、それぞれの望みを持っています。そして、それを必至に叶えようとするのです。友の為、家族の為、愛する者の為に。時として、その為に道を誤る者さえもいます。ですが、それほどに強く何かを想える者をこそ、私はいとおしく思うのです――

――我のしてきた事は過ちだったのか?――

――別に過ちだった訳ではありませんよ。貴方自身仰っていたではないですか、人にはどうしようもない現実もあると。ですが、夢とはいつか醒めるもの、幻もいつかは消えるものなのです。現実に立ち向かう力を溜めるまでの休息として以上には、人は幻の中に留まってはならないのです。一時夢の中でまどろんでも、目覚めるべき時には目覚めねばならないのです――

――そういうものなのか?――

――少なくとも、私はそう思っています――

――そうか……――

――これからは、人々を元気づけるような幻を見せて下さいね――

――判った――

――貴方の幻に捕らわれた人々を解放して下さいますか――

――……いいだろう――

――有り難う御座います――

迷い家との会話を終えた笙は、晴れ始めた霧の中を屋敷から去るべく歩き始めたが、ふと気づいたかのように立ち止まって、

「それと、私は感謝していますよ、貴方が幻を見せてくれたことに。二度と会えないと思っていた人に、僅かな時でも再び会うことが出来ましたから。最高のクリスマスプレゼントでしたよ。」

と、"迷い家"に背を向けたまま、呟くように告げた。
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