笙の周りは何処もかしこも真っ白だった。
ほんの数歩先さえ見えないような深い霧の中を、彼はただ黙々と歩いてゆく。

時々霧に迷い込んで、そのまま取り込まれたらしい人影を見たが、それらに構っている余裕は、今の彼にはなかった。

彼自身、濃い霧の中に幾度も見知った顔――クラスメートや、『影宮』の仲間や、家族等――の幻を見ており、老人の忠告を守って、それ等から目を逸らすようにしていなかったら、とっくの昔に幻に取り込まれていただろう。
彼の心に侵入しようとする霧――"迷い家"の力――に抵抗しながら仁美の姿を捜したが、一向にそれらしい姿は見当たらなかった。

真冬の夜中のはずなのに、この霧の中では妙な蒸し暑さや、息苦しさを感じる。そして、霧の中に入った時から感じていた"視られている"感覚――どこからかは判らないが――は時間がたつ毎に強くなっていった。

――もしかしたら、向こうも焦っているのかもしれませんね――

額の汗を拭いながら、笙はそんなことを考えた。迷い家にとって彼の存在は、魅力的な"エサ"であると同時に中々取り込むことができない異物でもあるのだ。そのうちに取り込むことを諦めて、彼を排除しにかかるかもしれない。

――そうなってくれればいっそ楽なんですけれど――

普段の彼は争い事を好まず、音楽好きな普通の高校生を装っているが、妖怪としての彼の戦闘能力は決して低いものではない。むしろ、並の妖怪相手ならば一歩も引かずに勝利を収められる位の自信が彼にはあった。
しかし、そんな彼にとってもこのような実体を見せず、幻のみの相手というのは勝手が違った。このままだと彼の神経の方が先にまいってしまうかもしれない。

――なんとか"迷い家"の本体に辿り着くことが出来れば――

変わり映えの無い霧と、間を置かずに現れる幻による焦燥感が彼を締めつけ、それが引き締められていた筈の彼の精神をほんの一瞬、無防備にした。たちまちの内に何かが心に侵入してくる。

――しまった!? ――

思わず心の中で叫び声を上げるが、その一瞬後には、彼の心は白い闇に包まれていた……



――ここは一体? ――

気が付くと、笙は人の手の入った林道のような場所にいた。背後には鳥居があり、少し先の方には御堂とおぼしき建物が見える。彼の立っている所は、どうやら神社の境内へと続く道のど真ん中らしい。

――何故こんな場所に? しかも、今は12月の筈――

疑問に思いながらも、彼は境内の方へと歩き始めていた。辺り一面は紅葉したもみじや銀杏が降りしきっており、深まった秋の風情に満ちている。

日頃ならば心を奪われていたであろう光景に、しかし笙の心は何故か落ち着きを無くしていた。彼にとってこの光景は、何処か既視感を感じるものだったから。

――何処だったかは思い出せませんが……間違いなく私はこの光景を知っている!――

疑惑はいつしか確信に変わっていた。

神社と言っても、普段、彼のよく行っている熱田神宮の光景ではない。それならば、これほど心が乱れることはなかっただろう。
そして、彼にとってこの景色は、何故か甘い疼きと鋭い痛みを心に感じさせるものだった。
知らず知らずの内に、彼の足は歩みを早めていく。

――もし、ここがあの場所ならば、この先には……――

そして、彼はとうとう境内に辿り着いた。そこはこれまでの道にも増して落ち葉が降りしきっており、視界までも塞がれそうな程だった。
しかし、彼の瞳は落ち葉には目もくれず、ただその先にたたずむ一人の人影だけをとらえていた。

そう、いつもの場所に彼女はいた。いつも通りの巫女の衣装を着て、彼の思い出のままの姿――微笑みを絶やさない少女の顔で。
いつもの彼であったなら、至極当然に幻影だと見破っていたであろう――事実先程までは幻影に惑わされはしなかった――光景を前に、今の彼は全く思考を働かせる事が出来なかった。

――これは夢ではないのか――

それは本来ならば、彼の思い出の内にのみ存在する筈の風景であり、人物であった。
しかし、彼にとってその思い出は、長い年月が経っても薄れるものではなく、むしろ取り戻すことの出来ない過去として強く、大きく、鮮烈にさえなっているものだった。失うべからざるものを失った過去。その記憶はあまりにも強い想いと共に、彼の心に留まっていたのだ。強い悲しみと悔恨を伴って。

今や、彼の脳裏には仁美のことも"迷い家"のことも無くなっていた。ただ、思い出の内にのみ生きる娘だけを想い、見つめていた。
そして、笙は走り出した、思い出の中で彼に微笑む娘の元へ。

「あ、あの、美鷺さん……」

娘の前に立ち止まって何か話そうとするが、言葉が続かない。

「どうなさったの? 笙様?」
「あ、あぁ、いえ、そのう……」

普段の彼では考えられない程、今の彼は言葉に詰まっていた。
そんな彼を、娘――美鷺――は印象的な瞳で見つめると、

「おかしな笙様。さぁ笙様、いつもの様に笛を聞かせて下さいませ。」

と、こぼれる様な笑顔を彼に向けて、笛の演奏をせがんでくる。

「え、あ、はい! 喜んで!」

顔を紅潮させて答えると、笙は笛を構えて吹き始めた。
秋の空に笛の音が響きわたる。風に合わせて強く、又弱く。雲の流れにのせて軽やかに、秋の夕日にのせて寂しげに。

――彼女は私のもとに戻ってきた。いや、ちがう。私が彼女のもとに戻ってきたのだ――

いつしか、彼はそんな想いに捕らわれていた。

――あの日の別れも、その後の地獄の様な日々も、総ては悪い夢だったのだ――

至福の時の中、笙は一心不乱に笛を吹き続けていた。
このままいられればという想いが笙を包み始めたその時、

「シャンシャンシャン♪ シャンシャンシャン♪」

と、どこからともなく鈴の音が響いてきた。
笛を吹く事に専念していた笙の耳にも、やがてそれは届く様になった。
始めは気にもしていなかった笙だったが、その音は次第に大きく響く様になり、終いには笙の笛をも圧倒する程の勢いで鳴り響く様になっていた。

そして、その音色に合わせる様に、今度は歌までが聞こえてくる。

「ふりしきる ゆきをけかけて そりははしる おかをこえて ♪」

耳に響く歌は、一般には最もポピュラーであろうクリスマス・ソング――ジングルベルだった。

――どうして、こんな歌が!? ――

彼には、何故、この場にこの歌が聞こえてくるのか解らなかった。

――どこの誰だか知りませんが、邪魔にしかならないのに!?――

軽快に響く歌声に、笙は苛立ちさえ覚え始めていた。

――いい加減にして下さい!? 一体、どこからこんなものが……――

そこまで考えた所で、彼は唐突に気付いた。辺りには彼自身と彼女の他には誰もいなかった。そしてかれの鋭い耳にもこの歌声がどこから響いてくるのか分からなかった。

――そうだ、私はクリスマスソングを聞いていた筈だ、ここではない場所で!――

笙は笛を吹き止め、彼の方を見て静かに微笑んでいる娘に向き直った。

「全て幻なのですね。この美しい光景も、そして貴女も。」

そう言った瞬間、彼の周りの全てが眩いばかりの閃光に包まれた……
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