「みゅーん、どこぉ。」
「みゅーんくーん、出ていらっしゃーい。」

夜の公園の中を、二人はかれこれ三十分近くも声を出しながら歩き回っていた。
町中の公園とはいえ鶴舞公園はかなりの広さがある。仁美の言ういつもの散歩コースを中心に歩き回って、既に公園の三分の一程は捜したはずだが、少女の言う犬の姿は全く見たらない。

――これは真面目にこの公園にはいないか、もう家に帰っているのかもしれませんね――

辺りを注意して、それらしい影がいないか見回しながら、笙はそんなことを考え始めていた。それに、彼自身はともかく、もう随分前から"みゅーん"を捜して歩いている仁美は大分疲れていることだろう。実際、少女の声には先程の様な元気が感じられなかった。

「少し休みましょうか?」

少女を気遣った笙が声をかけるが、当の少女は頑として首を縦に振らない。

――このままでは疲れて動けなくなるか、風邪を引き込んでしまうかするまで諦めないかもしれませんね――

無論、そんなことになったら一大事だ。何とかして、仁美を説き伏せようとする笙だったが、その試みは少女の熱意の前には全く通用しなかった。
公園内をあちこち歩き回っている内にいつしかぐっと気温は下がり、辺りには霧まで出始めている。

――いつの間にか霧まで出てきていますし、本気で帰ることを考えた方が………なっ!? 霧ですって!? ――

不意に彼は、辺りの様子がおかしいことに気付いた。

この数日間、ここ名古屋地方は典型的な冬空が続いており、雪も雨も一滴たりとも降っていなかった。公園内にも、その周辺にも蒸発霧(冬の始めに大気と水面の温度差によって出来る霧。主に湖岸や河川流域で発生する。)の起こる様な地形はなく、おまけにそんな季節でもない。つまり、霧の発生する条件は全く無かったのだ。

――まさか、近くに私の知らない妖怪が…… ――

彼がこの名古屋に長い間住んでいる妖怪であったならば、この公園に何かがいるということも知っていたかもしれない。しかし、不幸にも彼がこの地に来てから、まだ半年程しか経っていない。随分前にこの地にいたこともあったが、それもほんの数年に過ぎない期間で、この名古屋について知るにはあまりにも短すぎた。

――自然現象でないことは一目瞭然ですが、一体何の目的で…… ――

彼の思考は突然の仁美の声によって破られた。

「ああーっ! みゅーんだぁっ! こんなとこにいたんだぁ。」

喜びの声を上げながら、仁美は霧に覆われた先に向かって走り出した。
笙はすぐに仁美の駆けていった方に目を向けたが、それらしい犬は何処にも見当たらなかった。

そうこうする間に、仁美はどんどん駆けていっている。

「待って下さい! 一人で行っては危険です!」

と声を上げながら、笙も仁美の後を追って走りだそうとする。

「待つんじゃ、お若いの。追ってはならん!」

突然後ろの方から声がかかる。
笙が振り向くと、五メートル程離れたベンチに真っ白い髪と髭、眉毛を伸ばした小柄な老人が座っている。歳の頃はよく判らないが、元気な老人と言う形容が良く合いそうな人物だった。
普段だったら茶飲み話に付き合っても良かったが、今の笙にそんな余裕は無かった。

「邪魔をしないで下さい。急いでいるんです。」

それだけを告げると、笙は既に仁美の姿が完全に見えなくなってしまった霧の中に向かって走りだそうとした。
だがその瞬間、後ろから腕を掴まれる。驚いた笙が振り返ると、先程の老人がすぐ傍に立って彼の腕を掴んでいる。

「待てと言うのに。がむしゃらに追っていけば、人ならぬ身であっても捕らわれて抜け出せなくなるぞ。」

老人の言葉はそれ程重い口調ではなかったが、笙には少なからぬ衝撃を与えるものだった。自分のことを見抜かれた事もあるが、何よりこの老人は、彼に全く気配を感じさせずに彼の腕を掴める位置にまで近づいたのだ。極普通の老人だとは思われなかった。

しかし、今の笙にとってはその老人の事よりも、仁美を連れ戻すことの方がが先決だった。老人の手を振り払って、改めて霧の方に走り出そうとする。

しかし、既に彼の前に霧はなく、ただ薄暗い街灯に照らされた夜の公園があるばかりだった。
舌打ちしたい気分を抑え、再び老人に向き直った。

――まさか、お仲間? ――

自分にそれを見極める能力が無いことを恨みながら、目の前の老人に問い掛ける。冷静さを保とうとするが、その声は刺々しいものになってしまう。

「先程仰っていたのはどういう事です? あの霧は一体何なのです?」
「まずは座らんかね、お若いの。この歳になると立ち続けるのは堪えるでの。」

笙の口調を気にする様子も無く、老人は近くのベンチに腰を降ろしている。
口から飛び出かかった辛辣な台詞を堪えて、笙も老人の隣に腰掛ける。

老人は暫くの間、彼の顔をじっと見ていたが、やがて口を開くと張りのある声で話し始めた。

「あの霧は"迷い家"の張った結界じゃ。奴はあの中へ迷い込んだ者に、その者の最も思い入れの強い人や物の幻を見せて、その者を捕らえてしまうのじゃ。一度捕らえられた者は容易には抜け出せん。なにせ、その者にとって一番大切な者がすぐ傍にいるのじゃからな。仮にそれが幻と判ったとしても、それを振り切るのは難しかろうて。そうこうしてる内に捕らわれた者達は少しずつ精気を吸い取られていくのじゃ。」
「では仁美さん、先程の少女ですが、あの子も幻に捕らわれて……」
「間違いなかろう。儂も霧の中には何も見えなかったからの。」
「あんな小さな子供を……」

思わず言葉を失う笙だったが、老人の言葉は畳みかける様に続いた。

「あ奴には大人だの子供だのという違いは意味のないものなのじゃよ。」
「捕らわれた人々はどうなるのですか。」

いつか渇ききっていた喉から、声を絞り出すようにして笙は尋ねた。

「死ぬことはない。じゃが、捕らわれた者達の心に想いがある限り、解放されることもまず無いじゃろうて。」
「助け出す方法はないのですか。」
「奴――"迷い家"の見せる幻に全く惑わされず、奴の本体まで辿り着くことが出来ればあるいは……奴自身には戦う力は無い上に本来は無害な妖怪じゃからのう。」
「ちゃんと方法があるんじゃないですか。」

老人の言葉を聞いて、笙は僅かながら安心をおぼえた。

「今聞いた様な事をする妖怪が、本来無害だと言う意見には疑問を感じますが、今はそれを伺っている時ではないようですね。後はもう一度"迷い家"に接触する方法を探せばいいことになりますね。」
「それなら簡単じゃ。奴は何かを求める強い想いに反応する。お前さんの様な者の想いであれば、奴には素晴らしく甘美なものに映るじゃろうて。」
「つまり私自身が囮になればいいんですね。」
「さっきも言ったが、一度奴に捕らわれたら、抜け出すのは容易な事ではないぞ。強靱な精神力が必要じゃ。お前さんにはそれがあるのか?」
「あるという自信はありませんが、無いから諦めるという事が出来るほど器用ではないもので。力があるからやるのではなく、必要があるからやるのです。それに、私はこれよりももっと困難な状況に陥った事もありますし、今回もきっとうまくいきますよ。」

――もっとも、これまでは仲間達が一緒でしたが――

心の中で付け加えながら、笙はベンチから立ち上がった。

「どうしても行くのなら仕方ないが、最後に一つだけ聞いていくといい。霧の中で目の前に現れるのはお前さん自身の望みそのものなのじゃ。お前さんにとって都合のいい夢でしかない、ということを常に念頭に置いておく事じゃ。」

老人の忠告に無言で頷くと、笙は瞳を閉じて、心の中で様々なことを思い始めた。学校の友人の事、『影宮』の仲間の事、共に暮らす家族達の事、そして忘れ得ぬ過去の思い出を……
それをどれほどの間続けただろうか。笙の集中が老人の声によって破られる。

「来よったぞ。」

目を開くと、いつの間にか辺りには霧が立ち込め始めていた。そして、その先には見知った、しかし、この場にいるはずのない顔がぼんやりと見え始めていた。
笙は大きく息を吸うと、霧の奥へと、気を引き締めて歩き始めた。

「儂の言ったことをくれぐれも忘れるでないぞ。」
「ええ。」

霧だけを見据えつつ答えると、笙は霧の中に消えていった。
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