〜プロローグ〜

「!」

右の頬に重い衝撃が走り、君島正は後方に倒れこんだ。すぐさま起き上がろうとするものの、彼の視野は不安定に揺れ、脚は言うことを聞いてくれない。

――くそ……っ!

正は自分自身を叱咤し、朦朧とする意識に活を入れた。
その時に唇を噛みしめたせいで、苦い血の味が口の中へ広がっていく。それは心の中に広がった悔しさともよく似ていた。

「けっ。たいしたことねえよなあ」
「ああ」

優越感と残忍さに満ちた少年の声が、正の頭上に降り注いだ。そして、その声に追随するかのような数人の少年たちの嘲笑。彼らの表情にも態度にも、まるで罪の意識というものは感じられない。
彼らは確実に、この「イベント」を楽しんでいた。

「めんどーだからよ、さっさと行こうぜ」
「馬鹿。もう少しこいつで楽しまなきゃ損だろ?」
「ははっ、それもそうだな」

自分の周囲でこだまする悪意の波動に、正は吐き気すら覚えた。風紀委員会副委員長になって少しは経験を積んだつもりだったが、「腐っている」という言葉がこれほど直截的な表現になる者たちと出会うのは初めてのことだ。

ここは、日本最大の学園都市・蒼明学園。その中でも学生寮を中心とした私生活の場である西地区だ。あらゆる面でスケールの大きい――いや、スケールが桁外れなこの学園のこと、生徒たちの日常生活も十二分にサポートしている。

特に正たちがいる地域――朱凰商店街、通称フェニックス・ストリート――には、生徒たちが望む、ありとあらゆる店舗が存在している。「麻薬と兵器以外なら、何でも売ります」「毎日が価格破壊」など、様々なキャッチコピーをほしいままにしているのだ。

しかし問題が何もないかというと、実はそうでもない。

入るために許可が必要な文化施設などとは違い、西地区は基本的に学園外の人間にも解放されている。そのため他校の生徒がちょっとした息抜きに訪れることも多い。むしろ、他校の生徒との積極的な交流を目的として建設されたのだが……。
あいにくと、そうした者の中には蒼明学園を単なる遊び場としてしか見ていない連中もいるのだ。ちょうど今、正の目の前にいる少年たちがいい例だ。

「おいおい。さっさと立てよ、風紀委員さん」

リーダー格らしい少年が下卑た笑みを覗かせながら、正に向けて蹴りを放つ。
完全に油断している。しかし正はそれを冷静に見極め、手にしていた竹刀を振るった。

がっ――!!
「くうっ!?」

向こう脛を痛打し、少年が転倒する。逆に正が立ち上がって、買ったばかりの竹刀を正眼に構えた。少し頼りなく感じられるが、仕方ない。
他の少年たちがリーダーを助け起こしながら、敵意のこもった視線を向けてきた。

「まだやる気かよ、こいつ」
「馬鹿じゃねえの?」
「僕は蒼明学園高等部風紀委員会の副委員長だ」

わずかな淀みもなく、きっぱりと言い切る。

「学園と生徒を守るのが、僕らの役目――争い事は嫌いだけど、君たちみたいな人間をのさばらせるつもりはない」
「ふざけるな!!」

罵声と共に、少年たちは散開した。正式に武道を学んだ者の動きではないが、喧嘩で得た実践経験は大きいようだ。手慣れた様子で、一方が正の注意を引きながら、もう一方が彼の背後に回る。
こうなると、正の不利は否めなかった。彼の構えや足運びは一切の無駄がなく、気迫も十分だが、所詮は道場剣法だ。1対複数の戦いには慣れていない。
そのことを、正もよく分かっていた。けれど、退くことはできなかった。突然、脳裏に彼の尊敬する先輩の顔が思い浮かんだからだ。

あの人なら、どうする?

正は答えの分かりきっている問いを、敢えて心に発した。

――先輩なら、絶対に逃げたりしない……!

その答えに正は勇気が高まるのを感じた。誰にも言ったことのない、彼なりの気合いの入れ方である。

「……いくぞ」

友人から「人畜無害そうだね」などと評されている自分の顔を、きっと引き締める。その真剣な眼差しに、リーダー格の少年が瞳に宿る凶悪な光を強めた。

「……後悔するなよ」

そして、戦いが始まった。

……誰かが、自分の名を呼んでいる。
必死に、泣きそうな声で。

「ただし……正!」

意識がはっきりしてくるにつれ、痛みも目覚めてきたらしい。冗談にならないくらいの痛みが、体中で騒ぎ始めた。

「……つぅ……」
「当たり前よ、無茶するんだから……!」
「なんだ……澪か」

予想していたとおり、そこにいたのは幼なじみの斎籐澪だった。幼稚園の頃からの腐れ縁で、委員会まで同じである。

「なんだはないでしょ? 私が委員長を呼んでこなかったら――!」
「――そっか。先輩が、助けてくれたんだ……」

澪の言葉を最後まで聞かず、正は失意のため息を吐き出した。
風紀委員長――鬼堂信吾こそ、正の尊敬する人物だ。正も所属する剣道部の副主将を務め、その実力は全国レベル。委員長としても辣腕を振るう日本男児である。
そんな彼に惚れ込んだのは、今でも言葉ではうまく言い表わせない。ただ信吾と出会っていなければ、副委員長などしていなかったことだけは事実だ。

「やっぱり……先輩みたいにはなれないのかなあ」
「まあ、叶様曰く『彼は人間じゃないからね』らしいし……」
「はいはい」

優雅で華麗(ついでに言えば病弱)な購買委員長のことに話が及ぶと、澪の頬が赤く染まる。何となく面白くない気分になる正だった。

「じゃあ、無理だって言うわけ?」
「それだけじゃなくて……正は優しすぎるもん。あんなに強くはなれないよ」
「! だからって――つっ!」

身体を急に起こそうとするが、それを遮るように痛みが走った。たまらず、元の場所へ頭が逆戻りする。柔かい感触が不思議と懐かしい……。

「え?」
「……も〜、いい加減に気づきなさいよね。それとも、私の太ももは地面と同じくらいの価値しかないのかなぁ?」
「あ、いや、その……」

赤面しつつ、正は素早く離れた。身体の痛みなんて、忘れている。

「ご、ごめん……」
「いいよ、別に」

幼なじみの動揺ぶりに比べると、澪の態度は驚くほどあっさりしていた。

――分かんないな、女の子って……。

ふと浮かんだ疑問を、まさか尊敬する信吾も抱いているとは思っていない正である。

「委員長は委員長でしょ? 正は関係ないじゃない」
「……関係なくないよ。鬼堂先輩は厳しくて、考え方にちょっと偏りのある人だけど……優しいし、何より強い人なんだから」
「――なら、越えてみない? 鬼堂信吾を」
「誰だ!?」

不意に響いた女性の台詞に、正はつい誰何の声を上げていた。こういう高圧的な態度は好きではないのに……。

「私は――あなたの願いを叶える者」

ゆらり。

そうとしか表現できない歩き方で、1人の女性が隠れていた路地から姿を現した。
彼女の姿を見た途端、正は思わず息を呑んだ。制服のリボンやバッジからすると1つ上の先輩なのだろうが、彼女の美貌は既に少女の域を越えかけていた。
丁寧に梳られた長い髪は腰ほどまであり、すべてを吸い込んでしまうかのように黒い。同じ色合いの瞳には感情というものがあまり見られないが、どこか寂しげなその雰囲気が彼女の美貌をより際立たせていた。

「越えたいと思わない? 生徒会でも屈指の戦闘能力を誇る彼を」
「そんなこと……あなたには関係ないはずです」
「関係あるのよ、とても」

女は意味ありげな笑みを浮かべる。

「あなたが現実を変えようともしない、戦おうともしない者なら、別に構わないわ。私は別の手段を講じるだけ――でも」
「でも?」
「必ず、あなたは変えようとするわ……<世界律>を」
「……何言ってるの、この人……?」

震える声で、澪が正に向けて囁く。それは女に対してのものではなく、女の言葉に惹かれている自分自身への怯えだ。

「私が何を言っているのか……あなたにも分かっているはずよ、斎藤澪さん」
「――澪に何かしたら、先輩だからって容赦しない!」

本能的に危険を感じ、澪の前に立つ正。
寄り添う2人の姿を見て、女は奇妙な表情を浮かべる。限りなく憎々しげに、どこか懐かしそうに。

「君島正くん……人は必ず自分の内にある偶像を破壊する時が訪れるわ。その手段は人によって違う。ある者は偶像と違う分野で才能を開花させ、ある者は偶像を徹底的に蔑むことで自分の優位を確立する……でも、あなたはそれらの方法を選ばなかった」

――この人……!?

正は驚きに身を強ばらせた。彼女は分かっている。正以上に、正の心を。

「それはあなたの心が強いからだわ。強いからこそ、偶像と正面からぶつかり合い、乗り越えたいと願った――違うかしら?」
「……何が言いたいんだ……」

もはや敬語すら忘れていた。彼女の言葉が頭の中でぐるぐると回り、何度もリフレインする。その旋律に引き込まれそうになるのを必死に否定しながら、正は叫んだ。

「いつかきっと……僕は先輩を越えてみせる……!」
「無理よ」

女はどんな感情にも乱されたことのないような美声で呟いた。

「あなたと鬼堂信吾の間に立ちはだかる壁は……現実はそう簡単には越えられないわ。言ってみれば、あなたの願いは<世界律>に対する敵対行為――そう、今のあなたは<世界律>の敵なのよ」
「……!」

分かっている。
自分が信吾に遠く及ばないことなど、とっくに。けれど、正は選んでしまったのだ。自分がいつか越えるべき目標として。
諦めるなんて、できない。それでは今までの努力が無に帰してしまうから――いや、無に帰しても構わない。それより怖いのは、その先の自分自身を見失ってしまうこと。
だとしたら。
自分を見失ってしまうくらいなら……。

「――たった1つ、方法があるわ」

心の間隙を突くように、女が言った。

「現実が越えられないのなら、現実を変えてしまえばいい。<世界律>が敵に回るのなら、あなたの手でそれを破壊すればいい」
「現実を……<世界律>を……破壊する?」

そうだ。
変えてしまえばいい。僕の願いを叶えるために――。

「――駄目っ!!」

悲鳴にも似た澪の叫びが、靄のかかり始めていた正の意識を目覚めさせた。正は頭を何度も振って雑念を追い払う。
女は少しだけ口元の形を崩した。笑っている。

「澪さんに助けられたわね……」
「あなたは……僕を先輩にけしかけて、何を狙っているんだ」

直感だが、正は間違いないと確信していた。彼女は、先輩の敵だ。少なくとも、先輩を邪魔に思っている。

「けしかける? 違うわ……私は新しい選択肢を与えただけ。<世界律>を<改新>するという、もう1つの選択肢を」

そう言うと、女はくるりと身を翻して去っていく。2人は半ば呆然としながら、彼女が消え去るのを見つめていた。追う気力は湧こうともしない。

「<世界律>を<改新>する……か」

口の中で呟いたその台詞は。
なぜか、正の心を強く惹きつけ出していた。

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© 1997 Member of Taisyado.