第3章:RUNAWAY
〜不思議の国へようこそ?〜
予定と違った出会いになっちゃったわね。
江島愛美は腕の中で暴れる『チェシャ猫』を無理矢理抑えこみながら、軽く笑顔を見せる。もっとも、その程度では目の前の少女――永沢有子の警戒心は消えないようだ。

「んーっと、どこから話せばいいかしら。」
「あの…」

有子が申し訳なさそうに口を開く。

「何?」
「……どなたですか?私、覚えがなくて……。」

身体が倒れそうになるのを愛美は辛うじて堪える。ここでそんなリアクションをしたら、龍之介と同じではないか。
それにしても、と愛美は内心で苦笑した。他の委員長より早くこの役職に就いたとはいえ、やはり選挙管理委員長では生徒たちの記憶に残りにくいのだろうか?
(作者註:実のところ、愛美の存在を知らない生徒は希有である。何しろ、色々と……以下略)

「私は選挙管理委員長、江島愛美よ」
「あーっ!!」

有子がまたまた大声を上げる。愛美は顔も見えない生徒たちに珍しく同情した。

「生徒会長の懐刀さん!!」
「さんは付けなくていいんだけど……まあ、いいわ。それで――」
「あの、あのぅ」

上手く誤魔化して話そうとしていたところを邪魔され、愛美は有子をじろりと睨む。
いや、サングラス越しなのだから分かるわけもないが……やはり、迫力というものは伝わってしまうようだ。有子の表情に現れていた怯えが30%(当社比)ほど増している。

「あの〜……」
「何かしら?」

だから怖いって。

「えっと、そのぅ……江島先輩が抱いてる猫、さっき喋ってませんでした?」
「あ、これは新種よ。見た目はそこそこだけど、気を付けた方がいいわ。」
「害があるんですか〜!?」

さらに怖がらせてどーする、おい。

――私って話の邪魔をされると、ついこうなっちゃうのよね。まあ、この子に苛立っても仕方ないし、話を進めないと。神様が文句言いそうだし。

ちなみに愛美は無神論者である。この場合の神様とは――(謎の妨害電波発生)。

「冗談よ、冗談。それより永沢有子さん。あなたに色々と――。」
「えーっ! なんで江島先輩が私の名前知ってるんですか〜?」

いらいらっ。

会話のテンポを狂わされ、愛美は額に手を当てた。問題児ばかりの委員長より手強く感じるのは気のせいだろうか。

「すっごーい、やっぱり生徒会ってすごいんですね〜」
「……それはいいから、ね。私の話を聞いて」

 <うーん、マナミの手を焼かせるなんて、たいしたもんだにゃ。>

いつの間にか『チェシャ猫』は彼女を呼び捨てで言うようにしたらしい。他の生徒会メンバーがいれば、「神をも恐れぬ所業」と異口同音に叫んだことだろう。

「あ、やっぱり喋ってる〜」

 <うにゃ〜>

有子に喉をくすぐられ、『チェシャ猫』は嬉しそうに鳴いた。

「かわいい〜〜〜〜〜〜〜」
「……そうかしら?」

 <マナミはひねくれすぎなんだにゃ>

「初対面での印象が悪すぎるのよ、あ・ん・た・は」

確かに有子でも、天地がひっくり返った後で目の前に『チェシャ猫』が空間を渡って現れたら、印象は変わっていた……と思うが。
断定できないのが怖い。

「それより! 私は和泉くんのことを聞きたいのよ!」
「委員長さんの?」
「そう!」

ようやく本題に入れた、と愛美がほっとしたのも束の間。

ごうっ!

突然、部屋の空気が渦巻いた。

「まさか……あいつが出て来るんじゃないでしょうね!?」

愛美と『チェシャ猫』が身構えるのを見て、有子が慌てる。一人と一匹の顔に現れた真剣さは、それだけのものだ。

「『チェシャ猫』……どう?」

 <あいつじゃないにゃ……でも、力は感じる……>

「別の奴が来るってこと?」

 <話が早くて助かるにゃ>

「……他にどういう解釈の仕方があるのかしらね」
「妖精さんが出てくるとか」

有子の解釈に、『チェシャ猫』は尻尾を振るわせる。

――『ありす』もそうだったっけ……。

自分や自分の仲間たちを生み出してくれた、大切な人。ひたすらに思い焦がれる、守るべき人――そして、彼らの前から消えてしまった人。
自分たちは忘れられてしまったのか……?

「『チェシャ猫』!? 何ぼうっとしてるの!」

 <うにゃ!>

ほとんど転がるようにして、その場を離れる『チェシャ猫』。鋭い刃となった風が、床をえぐる。
愛美と有子は目を見張った。

「さっきより強いわよ!」
「床に傷をつけちゃいけないんですよー!」
「あなたは下がってなさい!」

なぜかその場を離れていない有子を、無理矢理押し退ける。
その時、再び風が動いた。しかし今度は、柔らかな風だ。だれも傷つけることのない、優しい風。
その風が、有子の腕を取った。

「……え?」
「――和泉くん!?」

愛美が滅多に出すことのない驚愕の声を上げた。そう、空間を割き、風と共に現れた者は――失踪したはずの、図書委員長・和泉達也。

風が止んだ。愛美は乱れた髪を整えながら、油断なく彼――和泉達也を見つめていた。

どういうこと?

愛美は自問する。かつての達也に空間を渡るなどという能力はなかった。彼が有していたのは、テレパシーだったはず。
その視線に気づいていないのか、彼は有子に微笑みを向けた。

――どくん――

「あれ……?」

何だろう、今の懐かしさは――達也の笑顔は、誰かに似ていた。
でも、誰に?

「行こう。『ジャバウォック』が再び目覚める前に……それに奴も――」

有子の追想を断ち切るように、達也が手を引いた。
といっても現れた時とは違い、図書館の出口へ向かおうとしている。
その彼の前に、愛美が立ちはだかった。

「逃がさないわよ、和泉くん」
「君は――江島さんか」

ん?

愛美はわずかに疑問を抱いた。今の間は何? 私のことを知らないわけがないのに。

「退いてくれないか……急いでいるんだ。早くしないと」

 <『ジャバウォック』が追ってくる……恐怖と共に、闇と共に>

達也の背後に回った『チェシャ猫』が、詩を吟じるように呟いた。その声は、有子と甘えていたものとはあまりに違う。老いに似たものさえ、愛美は感じた。ちらりと『チェシャ猫』に目をやった達也が、唇を噛み締める。

「本当にごめん、僕のせいで……。生徒会のみんなにも迷惑を掛けてるのは分かってる……けど、僕は永沢さんを助けたいんだ」
「あなた、本当に和泉くんなの?」
「え? え?」

有子の視線が愛美と達也の間を往復する。
……いや、そんなに激しく動かなくてもいいんだが。

「あともう少しなんだ……彼らは時計を狂わせることで、"時間律"に干渉してる。でも、それもすぐに消える。彼らが"不思議の国"へ帰る時は迫っているから」
「分かりやすい言葉で説明して」

掌に扇子を叩きつける愛美。

「今回の事件にあなたが関わっているなら、私たち生徒会メンバーが動くのは必然よ。妙な気は遣わないで」

 <……要は、仲間なんだから素直に言えってことかにゃ?>

「そういう台詞は言いたくないのよ」

ホント、素直じゃない。
達也はじっと愛美の顔を見つめていたが、首を横に振った。
拒否。

「……分かったわ」
「ごめん。君が僕のことを仲間だと思ってくれるのは嬉しいけど……僕は……」
「――いいから行きなさい」

驚いた表情を向けられた愛美は、あさっての方へ視線を変える。

「江島さん」
「正直、今のあなたは信用できないんだけど、特別サービスよ。自分のやりたいことをしてみれば? ――もちろん、彼女がそれを許せばの話ね」
「あ、私ですか!?」

いきなり話題を振られて、有子は戸惑った。二人の会話は聞いていたのだが、今一つ要領を得ない。結局、自分が部外者であることを再確認してしまい、何となくぼうっとしていたのだ。
これはさすがに責められないことだろう。

「でも私、何が何だか分からないし……あの、どうすればいいか」
「――変わってないや」
「え?」

達也は苦みを帯びた笑みを一瞬だけ覗かせると、有子の手を取り走り出した。

「え? え? あ、あの〜……ええ〜っ!?」
「永沢さん! 静かに――委員長!?」

向こうの方から小林美希の素っ頓狂な声が響く。その後は、周りもガヤガヤと騒がしさを増し始めたせいか、それぞれの声が明確に聞こえなくなる。

 <……いいのかにゃ?>

取り残されたうちの一匹が、一人の方を見上げた。

「何が?」

 <あのイズミとかいう人間、僕らのことを知っていた。たぶん、『ありす』のことも>

愛美の落ち込んだ様子を『チェシャ猫』はじっと見つめている。彼女の表情には後悔の色はなかったが、わずかな陰りを――。

「……ふふっ」

おや? 笑っている。しかも会心の笑みだ。

「ふふふふふふっ……甘いわね、『チェシャ猫』」

 <うにゃ?>

愛美が優雅な手つきで腕時計の文字盤を開くと、懐中時計のように文字盤が上に開いた。そして、何も映っていない液晶画面に向けて囁く。

「こちら愛美。生徒会本部、誰かいる?」
「――江島さん!?」

驚きの声と同時に、小さな液晶画面に紀家霞の顔が映った。

「江島さん? 本当に江島さん? そっくりさんとか偽物とか、破壊の魔王とか言わないよね?」
「……紀家くん?そこまで言ったなら覚悟はできてるわよねえ」

ぷつっ。
ぷーっ、ぷーっ、ぷーっ……。

 <切れたにゃ>

「あ・い・つ〜〜〜!! 私が締め切り待ってあげてる恩を忘れて〜〜〜!!!」

ぎっくぅ。

 <な、何の話にゃ?>

「選挙関連の書類よ。気にしなくていいわ」

そう答えると、再び通信機に唇を近づけた。

……何となくほっとしてしまう。
え、誰がって? それは秘密である。

「"ノア"、応答して。"ノア"!」

いつもならすぐに応答するスーパー・コンピュータが、なぜか反応しない。

「ちょっと、"ノア"!」
「……この通信回線は現在使われておりません。機嫌をお直しのうえ、もう一度お掛け直しください――」

……………………。

今度こそ、愛美の周囲5mの空気が凍りついた。氷河期もかくや、と言わんばかりの寒さが『チェシャ猫』を襲う。

 <猫は寒いのが苦手にゃー!>

「……"ノア"。私と紀家くん、どちらについた方が得か、あなたの優れた機能で判断してみたら?」

打って変わって愛美の口調は落ち着いていた。しかし、その落ち着きが逆に怖い。
"ノア"がしばらく沈黙した。
そして。

「――用件は何でしょう。江島委員長」

にっこりと微笑む愛美。
しかし、なかなか世渡りが上手なスーパー・コンピューターである。

「簡単なお願いよ。私の発信機、追尾してる?」
「もちろんです。――現在、校舎を出てさらに移動中ですが」

予想よりちょっと早いわ――愛美は軽く唇を噛む。これというのも、霞が余計な手間をとらせたからだ。あとでお灸を据えることを堅く誓いつつ、愛美は言った。

「しっかりマークして。頼んだわよ」
「――あ、江島さ〜ん」

霞が回線に割り込んできた。

「さっきはごめ――」

ぷつっ。
…………。

 <あ、謝ってたみたいだったにゃ>

「覆水盆に返らず、時すでに遅しよ」

 <それにしても、発信機なんていつ付けたんだにゃ?>

『チェシャ猫』が首を傾げる。そんな様子は全く見受けられなかったのだ。愛美は扇子を広げ、口元の笑みを隠す。

「和泉くんが現れる直前、永沢さんにね。あの子、少し気になるのよ」

 <マナミもそう思ったのかにゃ>

「さあ、お喋りはここまでよ。いくら二人の居場所を掴んでいても、追いつけなかったらまったく意味がないんだから」

感心する『チェシャ猫』を抱きかかえると、愛美もまた図書館を駆け出した。図書副委員長・小林美希が顔をしかめたのは、これまた言うまでもない。良い子のみんなは、こんな真似はしないように。
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