第8章 覚悟
夜気が唸る。
武村の3番アイアンが振るわれるたびに、かき乱された空気が紀家の頬を打った。
ぶん、ぶん、という唸りの一つ一つが、紀家の頭蓋を割るに充分な必殺の一撃なのだ。それゆえ容易には間合いを詰められず、じりじりと後退せざるを得ない。
しかし武村も、決して余裕があるわけではなかった。
むしろ、追いつめられていると言ってもいい。
武村の視界の端で、宗祇が治療を受けていたのが分かった。「生徒会役員は魔法を使う」という噂はそれまでにも聞くのだが、実際にそれを目の当たりにするまでは、正直信じ切れていなかった。龍之介の説明を聞き、的場の使う魔法薬の力を見ていながら、である。

だが今や、疑いは確証に変わった。そして、絶望が頭をもたげてくる。いくら傷を負わせようと、後方で治療されれば、すぐに戦列に復帰してくる。となれば、殺すしかない。

その気負いが、武村の大振りを誘った。
それを見逃す紀家ではない。
タイミングを合わせた蹴りが、クラブの中ほどを捉える。そこを支点に、クラブはぐにゃりと曲がった。ヘッドが、紀家の胸をかすめ、ボタンを一つ跳ね飛ばす。

「ちぃっ!」

武村は役に立たなくなった3番アイアンを投げ捨て、紀家に直接掴みかかろうとした。当然、紀家も続けて蹴りを放つ。
だが。

「!」

右足が動かない。痺れるような痛みが、足首から下を掴んで離さない。クラブを蹴ったときに傷めたのだろう。
長引くような痛みではないが、その一瞬の激痛は、武村を肉薄させるには充分すぎる隙を生んだ。
武村の手が迫る。蹴りを放つには遅すぎる。
武村が、ニタリ、笑った。

ぱぁん!

武村の頬が音高く鳴った。思わぬ反撃に、武村の動きが止まる。
そこに、モーションの小さい紀家のパンチが襲い掛かる。狙いは、防具に守られた胴体ではなく剥き出しの顔面。高い打撃音が幾度も弾け、鼻血が散る。武村の上体がぐらりと揺れたところに、

ごっ!

紀家渾身の蹴りが入った。
紀家が待っていたのは、この瞬間であったといえる。

カポエラは脚だけで戦う格闘技。無論それは間違いである。しかし、一般にそういうイメージがあることは確かだ。紀家はその些細な誤解を最大限に利用すべく、これまで脚のみで戦ってきた。武村はそのイメージにまんまと乗せられたわけだ。

しかし、完全に武村のあごを打ち抜いた紀家の蹴りも、いまだ武村の意識を吹き飛ばすには至らなかった。
だがそれは大した問題ではない。
すぐそこまで、佑苑と叶とが加勢に駆けつけていたからだ。

三人が武村を取り囲む。
それからは、もう戦闘などと言えるものではなかった。まさに一方的な暴力、リンチである。
しかも、紀家たちは武村が防具をまとっていることを承知している。すなわち、打撃は自然と顔面にばかり集中していくのだ。

顔を血と泥でまだらに染めながら、それでも武村は倒れなかった。
打撃に苛まれながら、時折思い出したように拳を振り回す。無論そんなものは当たりはしない。

しかしそれは、逆に紀家の心を追い詰めていった。
もう、何度殴り、蹴ったか分からない。
武村の顔面は既に血みどろで、腫れ上がったそれは原形をとどめていない。それでも、倒れないのだ。武村とて人間である。
これだけの打撃を、それも頭部に受けていれば既に気を失っていなければおかしい。これ以上攻撃を受け続ければ、死んでしまいかねない。

それでも紀家は、全力で武村の頬に蹴りを打ち込んだ。手を抜くわけにはいかないのだ。
武村の上体がぐらりと揺れる。足がたたらを踏む。

(今度こそ倒れろ!)

紀家は念じるように睨み付けたが、

ぎゅっ。

最後の最後で武村は踏みとどまった。その、ひゅう、ひゅう、と言う呼吸音ばかりがいやに紀家たちの耳に響く。

立ち続けるなら、殴らねばならない。
蹴らねばならない。
しかし、このままでは、死ぬ。
殺してしまう。

ちらり、紀家と佑苑の目が合う。
佑苑の目もまた、迷いを帯びていた。
叶はと言えば、手を出すでもなくただ様子をうかがっているようにしか見えない。

(どうする?)
(どうする?)

紀家と佑苑、二人の脳裏にはその一言ばかりが渦を巻く。
殴る手が鈍り、蹴り足が鈍る。
しかし、そこに飛び込んできた声があった。

「武村くん!」

今にも泣きそうな、そんな叫び声を上げたのは、愛美の傍らにいた沖田だった。

「武村くん、もうやめてよ! そんなに頑張ること無いよ! もうやめてよ!」

愛美に肩を掴まれた沖田は、その場で声を張り上げる。

「武村くん! 的場に騙されてるだけなんだ! ただ利用されてるだけなんだよ! だから、戦うことなんてないんだよ!」

騙されてるだけだ。この一言を言ったとたん、涙がボロボロとこぼれた。

「どうせ僕たちは捨て駒なんだ。的場くんに利用されて、最後には捨てられちゃうだけなんだよ。どうしてそんなことも分からないのさあっ!」

武村は、沖田に顔を向けたまま、その場に棒立ちになっていた。
この絶好のチャンスに、紀家たちは動かなかった。
あわよくば沖田が、自分たちに課せられた終わりの見えない一方的な暴力を止めてくれるのではないかと期待したのだ。
そんな思いは知らず、沖田はただ自分の想いを叩きつける。

「的場くんなんてもうほっとこうよ! どうせ的場くんも生徒会にやられちゃうんだ。だから帰ろうよ。もうやめて帰ろうよ!」

武村が、ゆらり、一歩を踏み出した。唇が切れ、真っ赤になった口元がもぞもぞ動く。

「うるせえよ……」
「!?」

沖田は、自分の聞いたことが信じられなかった。

「それって……どういう……?」
「おめえはいつもそうだよな。何かってえと、泣き言ばっかりだ。もう、うんざりだよ……」
「武村、くん……?」
「もう、俺にはこれしか残っちゃいねえんだよ……。あいつに託すしか残っちゃいねえ……」

べっ、と武村が唾を吐いた。血の塊の中に、白い歯のかけらが埋まっている。

「邪魔、しねえでくれるか・・・」

自分を拒絶する武村。沖田の目に、怒りが滲む。

「違うよ! 絶対間違ってるよ武村くん! どうしてそんなに馬鹿なのさあっ! そんなんだから、テストの時だって……」
「沖田よぉ……」

武村は震える膝を折り、足元に手を伸ばした。そこに転がっているのは、投げ捨てた薙刀である。

「おめえが、腹ん中じゃあ俺を馬鹿にしてたのは、ずっと前から分かってた……」
「えっ……」

沖田が、青ざめた。
図星だった。
沖田自身気づいていなかった、自分と武村を繋いでいたもの。
自分より、下だと思える存在。
腹の底で、笑ってやれる対象。

「でもよ。そんなお前も、嫌いじゃあなかったなあ……」

薙刀を持ち上げる。

「沖田よぉ……」

くるり、手を持ち替えた。

「俺たち、いい友達だったよな……」

ぶんっ!

振りかぶってからは、まさに一瞬。
真意に気づいた紀家たちが止めるよりも早く、薙刀は武村の手から離れ、夜気を貫いて沖田に迫った。
街灯の光を白刃が跳ね返し、一条の光のように走る。
自分に迫る危機を受け止められず、呆然とそれを見守る沖田。

(ああ、これは死んじゃうなあ……)

そんな、一種のんびりとした感想を抱きながら、沖田はその場から一歩も動けなかった。
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