プロローグ
日曜日の夕方。
強い冬の風が、枯れ枝の間を悲鳴を上げながら吹き抜けていく。立木の並ぶ、人気の無い校舎裏に、一人の男がたたずんでいた。
短く刈りそろえた漆黒の短髪、一分の隙もなく着こなされた詰め襟の制服、そして、右手に携えた赤樫の木刀――いや、その姿を取った二十二の魔宝の一つ、<正義>――。
言わずと知れた、蒼明学園高等部生徒会風紀委員長、鬼堂信吾、その人である。
身を切るような寒風の中、彼は苛立たしげに吐き捨てた。
「呼び付けておいて姿を見せぬとは…。馬鹿にしおって!」
信吾は左手に持っていた一枚の紙切れを握り潰した。
大学ノートの一ページを破り取ったそれには、鉛筆の汚い殴り書きで、とんでもないことが綴られていた。
『果し状……今週の日曜日、午後五時に高等部の校舎裏で待ってます。ボッコボコにしたげるから、楽しみにしててねっ……らぶりーシンちゃんへ』
「許せんっ!」
怒り狂うのも無理はない。このような挑発的な文面を突き付けられて平気でいられるほど、信吾は人格の完成した人間ではないのだ。
「あまつさえ『シンちゃん』などと!」
握り潰された果し状が、ただの紙屑に変わった時、校舎の蔭から奇妙な人影が、のっそりと現れた。
「わーははははっ。待たせたな小次郎!」
大柄な体躯を持つその男――高等部の生徒だろう――は、野太い声で笑い、青と黄色に塗り分けられた子供用ゴムボートのオールを信吾に突き付けた。
「……宮本武蔵を気取っているつもりか……」
信吾の唇が、笑いの形に曲がった。しかし、唇の筋肉はすぐに引きつり、奥歯がギリリと音を立てた。
目尻と眉が吊り上がり、瞳の奥に炎が逆巻く。
「どこまで人を馬鹿にするかっ!!」
信吾が地を蹴った。武蔵モドキとの間合いを一気に詰める。だがその時、前方の立木と校舎添いの植え込みの間に、一本のロープが足首の高さにピンと張られた。
「罠……? いや、伏兵か!」
ロープを飛び越えた直後、植え込みの中から一人の少年が姿を現し、今にも泣きだしそうな顔をしながら鬼堂に石を投げつけた。
信吾は巧みな体さばきでその一投をかわすと、
「小賢しいっ!」
そこから一挙動で少年に斬りかかる。しかし、その動きを待っていたかのように、武蔵モドキがピンク色の小さな球体を信吾に投げ付けた。
信吾は、体勢を崩しながらも思わず木刀を振るっていた。
ぱゅっ!
木刀の一閃を受けた水風船があっけなく爆ぜ割れ、中の液体を信吾の体にぶちまけた。
信吾がいまいましげに顔を拭おうとした、その時。
「ぐああああああああっ!?」
突然の灼熱感が、信吾の眼球と喉を焼いた。止まらない涙と咳にさいなまれ、信吾はたまらず地面に膝をつく。
そこに武蔵モドキがヘラヘラ笑いながら歩み寄った。
「ハッ、情けねーなぁシンちゃん。単に催涙スプレーの中身を被っただけじゃねーか。そんなんで、よく風紀委員長なんてやってられ……うわ、結構キツイぞ これ! あっ、沖田!」
植え込みから現れたあの少年が、目の痛みに悶えながら地面をゴロゴロと転がっていた。
「武村くん、武村くん、助け……痛いよぉっ!」
「しょーがねえな。ほら、手ぇ貸してやる……」
武村と呼ばれた武蔵モドキが屈んだその時だった。
ざうっ!
一瞬前まで武村の頭部があった空間を、斬撃が薙いだ。
武村の頭髪が、数本、削ぎ落とされて宙に舞う。
「なっ!?」
「だれが……シンちゃんだ……っ!」
信吾が、地面に膝をついたまま木刀を振るっていた。
目は閉ざされたまま、咳も止まっていない。しかしその一閃は、武村を戦慄させるには充分だった。
「こ、このヤロー!」
ごっ!
苦しみに耐えながら立ち上がろうとしていた信吾の後頭部を、武村のオールが一撃した。信吾は「無念……」と一言を残し、その場に崩れ落ちた。
真っ赤になった目を擦っていた沖田少年が、顔面を蒼白にして武村にすがりついた。
「た、武村くん! 鬼堂先輩、し、死んじゃったんじゃ!」
「し、心配すんな。気ぃ失ってるだけだ。……多分」
「何やってるんです武村くん。早くこっちに運んできなさい」
武村が出てきた校舎の影から、今度は細身の優男が姿を現した。くるりとカールした前髪をいとおしげに撫でている優男を、武村は忌ま忌ましげに睨んだ。
「けっ、的場よぉ。何にもしてねーくせに、偉そーにしてんじゃねーよ」
武村の悪態に、的場は蔑みの視線で応えた。
「僕の仕事はこれから、それも、この作戦の要なんですよ。野蛮な仕事は、野蛮な人に任せただけです」
「野蛮だとぉ!?」
声を荒げる武村を、的場は氷の視線で突き刺した。
そして、武村の眼前に自分の右腕を伸ばし、手の平を向ける。
「武村くん。軽はずみな行動がどんな結果を産むか、考えてみたらどうです?……それに、できることなら僕も暴力は使いたくないんです」
「……ちっ!」
武村は舌打ちをして、的場に背を向けた。的場は彼を顧みず、ピクリとも動かない鬼堂を見下ろし、ねっとりとした笑みを浮かべた。
「さあ、戻りましょう鬼堂くん。僕が、案内してあげますよ」
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