第6章:IT'S DREAM?
〜サヨナラは、言わない〜
その頃。

永沢有子は、夢を見ていた。忘れていた、幼い頃の夢を。
夢の中に、もう1人の彼女がいる。小学生の頃の自分。髪型は今と同じ、おかっぱ頭。

幼い有子は、泣いていた。

――……そっか。あの頃は、いつも泣いてたっけ。いつも……。

寂しかったから。

「大丈夫さあ」

不意に、少年の声が響いた。

――この声……!

有子の意識が、声のした方へ向けられる。そこには、彼女が思い浮かべた青年――その面影を強く残す少年が立っていた。

ただわずかに違う点は、夢の中の少年が青年――和泉達也にはない、やんちゃさを覗かせているところ。落ち着きのある今の達也とは、別人のようだ。

「泣くなって。怖いもんなんかないじゃん」
「でも……お兄ちゃん」

――ああ、やっぱりそうなんだ……!

有子は涙が出そうになるのを感じた。大切な人の存在を思い出せたことが、たまらなく嬉しい。そして、その人と再会できたことが。

――でも、それなら……なんで私は忘れてたの? お兄ちゃんのこと……やっぱり、私が……私が……『ありす』だから?

まだ、思い出せない。

「俺が有子を守ってやるから、さ」
「うん……ありがと、お兄ちゃん」

悩む有子の前で、幼い頃の情景は流れるように紡がれていった。同時に、達也のことも次々と思い出していく。
お隣のお兄ちゃん。元気で、ちょっと無鉄砲な性格。お爺ちゃんやお婆ちゃん以外で、私の能力を怖がらずにいてくれた人。学校では、いつでも私を守ってくれた……。

――お兄ちゃんがいなかったら、私は……。

有子の祖父たちが彼女にとって最大の保護者であるとしたら、達也は幼いが実践的な教師だった。能力者にとって最も重要な精神面を、彼が守り通したのだ。

能力――それが魔法であれ超能力であれ何であれ――を扱うには、使い手自身がその力を認めなくてはならない。現実と非現実の壁を打ち破るだけの意志力がなければ、能力はただの夢で終わる。
能力は無から生まれるものではなく、手を伸ばせばそこにあるものだから。

そのことを直感的に悟っていた達也は、有子の幼い心を守った。

だが。
それが、彼を迷宮へと閉じ込める原因になったのだ。

有子はまだ、そのことを忘れている。無理もない。すべては、彼女の知らないところで起きたのだから……。

「……だめ……『じゃばうぉっく』は怖いの……」

――!

電流が走ったかのように、有子は全身を震わせた。恐怖をもたらす怪物と、それに立ち向かっていった達也の姿が脳裏に蘇ったのだ。

――夢……なんか、見てられない! 先輩を、お兄ちゃんを助けなきゃ!

「怖くない、怖くない……だよ」

少年の頃の達也が、優しく語りかける。泣きじゃくる有子に向けてだ。けれど、今の有子には何より力強い言葉だった。
そうだ。彼はいつもこうして、守ってくれたのだ。

――ありがと、お兄ちゃん。もう怖くないよ……。

そして、有子は意識を上へと向けた。
現実の世界へ、戻るために。

「……ってな……俺が……っくを……やっつけ……」

切れ切れの言葉がかすかに聞こえたが、有子は既に夢の世界から抜け出ていた。
だから、その次に浮かんだ光景も見ることはなかった。
達也がテレパシーを使って残した、メッセージを。

「……ここは……?」

目を覚ました有子は、自分が椅子に座っていることに気がついた。英国風の、背もたれが大きなものだ。
その次に彼女が見たものは、目の前のテーブルに並べられたお菓子の山。香ばしい匂いが彼女の鼻を――。

くぅぅぅ。

鼻と、胃を刺激する。

「……だって、お腹すいちゃったんだもん……」

赤面しながら、言い訳めいた台詞を誰へともなく呟く。けれど、さすがにつまみ喰いはしない。ちょっとだけ、心は惹かれるが……。

――! そう言えば、和泉先ぱ……お兄ちゃんは?

慌てて立ち上がり、周囲を見回す。緑あふれる草原だ。蒼明公園に似ているが、ここには街灯や整備された道がない。見渡す限り、草花で一杯だ。
もちろん、達也の姿はない。

「お兄ちゃ――」
「お目覚めのようだね、『ありす』」

悪意が滲み出た声に、有子は一瞬震えた。そして、ゆっくりと振り返る。

「――あのぅ、どなたですか……?」

ずるりんっ。

……いや、彼女の態度は正しいとも言える。そこにいたのは、シルクハットに燕尾服の中年男性だったのだから。
ちなみに、彼女が後に出会うこととなる某魔術師とは何の関係もない。

「私は『帽子屋』。久しぶりだな、『ありす』」
「『帽子屋』……あなたも、私が創ったものなの……?」

『帽子屋』の眉が、ぴくりと跳ね上がる。

「ほう……思い出したのか?」
「まだ、全部じゃないけど……それより、お兄ちゃんはどこ!?」

有子の剣幕(といっても、あまり怖くない)を無視したように『帽子屋』の姿が消え、すぐに彼女の真正面の席に現れる。縦に細長いテーブルの両端で向かい合うことになるから、少し遠く感じられた。
有子の声など、向こうまで届かないかもしれない。

「座ったらどうだ、『ありす』。紅茶も菓子もある……2人きりで再会のパーティーといこうじゃないか」

『帽子屋』の表情は、余裕綽々といった感じだ。嫌味っぽく口髭をいじっている。大抵の者なら不快感を覚え、席に座ろうとはしない。

だが、有子は何の迷いもなく席に座ると、彼女に用意された紅茶を一口飲んだ。

「おいしい〜〜〜! でも、これ何だろう? ダージリンに似てるけど……」
「……警戒しないのか」

さすがに呆気に取られていた『帽子屋』が、何とか言葉を絞り出す。その彼に返ってきたのは、有子の赤面した顔だった。

「あっ、そうだった! 私、お腹がすいてたから。お兄ちゃんのことも……あ〜、恥ずかしいぃ〜。あの、でもでも、忘れてたわけじゃなくて。おいしそうだったし、『帽子屋』さんが誘ってくれるから、つい……ああ〜、恥ずかしいよおぉ〜」
「………………」

相変わらず動転すると言葉が意味不明になる少女である。

「……妙な娘だ」

『帽子屋』には、理解できない。彼女の無警戒ぶりが。なぜ、そこまで平然としていられる?私は、お前を……。

「あの、『帽子屋』さん?」
「何だ」
「ここ、どこなんですか? 蒼明学園……じゃないですよね?」
「<不思議の国>さ。お前の残した、な」
「……?」

首を傾げながら、有子は何とも言えない想いが胸に渦巻くのを感じていた。それは彼女にはふさわしくない感情の嵐。
理不尽なものに対する、果てのない怒り。

――また、私? 私なの? 本当に私が『ありす』なの? みんな、私が……『ありす』がやったって言う。私は知らないのに。どうして?

『ジャバウォック』も、『帽子屋』も、『ありす』に手を差し伸べてくる。
そして、お兄ちゃん。お兄ちゃんは……違う。そう信じたい。私を守ってくれたんだって。『ありす』じゃない、普通の私を。

強いテレパシー能力を持つがゆえに他人の感情を浴び続けた有子は、自然と自身の感情を抑えるようになっていた。だから、彼女がこれほど自分自身の感情に乱されたことは、ほとんどなかった。
それは、彼女が他者――両親や祖父母たちに心配を掛けたくないという優しさ。だが、有子は知らなければならなかったのだ。自分の内側にも、激しく醜い感情の奔流があるということに。

しかし、有子は知らずに来てしまった。だからこそ胸が熱く、痛い。
涙がこぼれた。そして、言葉も。

「……どうして……どうして、私が……?」
「お前が『ありす』だからさ」

『帽子屋』の声は、有子の耳元で囁かれた。はっと顔を上げると、いつの間にか彼は有子の横に立っていた。

「辛いか、『ありす』……。ならば、私を受け入れることだ。そうすれば、淋しくはない。お前の孤独は消える」
「……違う、の……私は……」

私は『ありす』じゃない――そう言いたかった。けれど、こぼれる涙をしゃくり上げた時に言葉も一緒に飲み込んでしまった。そのせいで、口に出すのが一瞬遅れた。
その前に、『帽子屋』が言葉を続ける。

「お前は淋しいのだ。他者と異なる自分が、決して受け入れられないことを知っているから……お前は、私を受け入れればいい。そうすれば孤独ではなくなる。私は絶対にお前から離れはしないのだから……!」

『帽子屋』の台詞が、次第に熱を帯びていく。顔を背けようとする有子の両肩を掴み、それをさせない。

「さあ、私を受け入れろ! さあ!」
「いや……! やめてぇ!」

バシィッ!!

激しい衝撃音が響き、2人は引き剥がされるように吹き飛んだ。『帽子屋』は不様に転倒したが、有子は何かに抱きとめられた。ひやりとした冷たい感触が皮膚を伝う。

 <無事か、『ありす』>
「あ……」

その声――いや、どちらかというと、それは有子にもできる思念に近い――に、彼女は身を震わせた。そして、すぐに身体を離した。
達也を傷つけた存在だということもある。だが、何よりも恐怖がすべてを上回った。

「『ジャバウォック』!貴様、どういうつもりだ!」
 <それはこちらの台詞だ、『帽子屋』>

闇と恐怖をまとった魔獣――『ジャバウォック』が、冷然とした瞳を『帽子屋』に向ける。ほとんど恐竜のような姿なのに、彼の眼差しには知性の輝きがあった。
狂おしいほどの暗い光を、その奥に潜ませてはいるが。

 <『ありす』に何をするつもりだ。答えてもらおうか>
「貴様には関係ない」

素早く立ち上がりながら、『帽子屋』が静かな怒りを込めて告げる。2人の間に目に見えない火花が奔り、ぶつかり合う。

有子はどうすることもできず、1歩また1歩と離れる。彼らの放つ殺気は、彼女に対して毒にも似た危険さをもたらしかねない。

――怖い……この人たち、本気だ……本気で、お互いを……憎んでる。

「『ありす』も手に入った……『ジャバウォック』、貴様にも消えてもらおう。貴様の『ありす』に対する渇望は、狂気に近い。私にとっては、邪魔なだけだ」

『帽子屋』のシルクハットがひとりでに浮かび上がり、回転を始める。

 <我の想いは確かに狂っているだろう。だが>

身体を深く屈め、牙を剥き出す『ジャバウォック』。

 <それは貴様も同じだ、『帽子屋』。お前もまた、受け入れられぬ>
「黙れええええっ!!」

『帽子屋』の絶叫と共に、戦いは始まった。
そして、有子は。
見ているしかなかった。どうすればいいのか、分からない。真っ暗闇だ。自分がここにいるわけさえも分からないのに、何ができる?

「誰か……誰か、助けて……」

彼女は、力なく呟いた。

「お兄ちゃん……教えて。どうすればいいの? 私、どうしてここにいるの?」

返ってくるはずのない答えを求めながら、有子は泣きじゃくった。
幼い頃のように。
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