第6章:IT'S DREAM?
〜サヨナラは、言わない〜
紀家霞が気づいたのは、あくまで第三者として様子を見ていたからかもしれない。
信吾の表情が焦りに彩られていたことを見分けたのは、位置的な幸運もあったのだろう。だが、報道委員長として人の表情を読むことに慣れた霞だからこそ、信吾の言いたいことを素早く読み取れた。
分かった瞬間に、動いていた。ほとんど知られてはいないが、霞の得意とするのは情報収集だけではない。実はアフリカに源流をもち、ブラジルの奴隷たちが発展させた格闘技カポエラの使い手なのだ。

なんでそんなものを彼が身につけているのか、説明している時間も余裕も文にするスペースさえない。

しかし今は、それで培った敏捷性が役に立った。

ほとんど決まっていたはずの未来に、霞の身体は割り込んだ。その時は物理法則(別名をルールと呼ぶ)をも越えていたに違いない。

が、生憎なことに未来そのものを完全に変えることはできなかった。シルクハットからすれば、切り裂く対象が変わっただけのこと。

「くっ――!」

背中を、激しい痛みが襲う。肉が抉られた感触は、生命を奪われているという事実を残酷に教えてくれる。

悲鳴が聞こえ、霞の脳裏に愛美の怒ったような表情が思い浮かぶ。

いや、そんなまさか。あの愛美さんが、悲鳴を?

考えているうちに、目の前が暗くなっていく。

――あ……やばいかなあ……。

一撃で意識をもっていかれるのは久しぶりだな、などと呑気な感想を抱きつつ、霞はその場に倒れ込んだのだった。

たぶん、この後で目を覚ましても自分に向けられる言葉は、

「大丈夫?」

ではなく、

「いつまで寝ているのよ!」

であることは間違いないな、と思いながら……。

「チイッ、ヨケイナマネヲ!」
「おのれっ!」

『帽子屋』の舌打ちと信吾の怒声は、ほとんど同時。横殴りの一撃は、しかし『帽子屋』の肩を浅く掠めただけだ。まだ、捉えきれない。

宙に浮かんだ『帽子屋』の元へ、シルクハットが戻った。剣呑な武器は彼の手に収まると、その回転を止める。

「しっかりしろ、紀家!」

駆け寄った龍之介が声をかけながら傷口を見て――少し絶句した。予想以上にひどい。

「似合わないことするからだ、馬鹿!」
「……紀家くん」
「愛美ちゃんは鬼堂のフォローに回れ! 不本意だけど、紀家は俺が何とかする」

いつもとは指示する立場が逆転しているが、珍しいな、と考えている暇はなかった。

「でも、私のせいで……紀家くんが……」
「らしくないぜ。責任問題なんかで時間を取るな、取るなら事態の対処を優先せよ――ってのが愛美ちゃんのやり方だろ? 大丈夫、紀家がこんなんでどーこーなるかよ。書かなきゃならない原稿、山ほど抱えてんだから」
「ごめん――」

相変わらず、愛美の表情はサングラスで隠されている。龍之介としては、ほんの少しありがたいと思えた。こんな時の顔を見てしまったら、怪我人放り出してでも口説き始めてしまうだろうから。

ああ、俺ってツイてない。紀家の馬鹿、もっと状況考えて怪我しろよなっ。

悶々とした想いを抱える龍之介である。

その間に、愛美は完全に自分を取り戻していた。この辺の立ち直りの速さが、実に彼女らしい。

「分かったわ。それじゃ――お願い」
「りょーかい。あのふざけた野郎に、きつい一発ぶち込んでくれよ」
「当然ね」

最後の台詞には、凄味のある笑いつき。それを見た龍之介は、『帽子屋』に哀れみを覚えた。何度か見たことのある笑顔と、その後の結末がそう感じさせる。

――あんたの負けだよ、『帽子屋』。お前は本当のチェック・メイトを自分の手で呼んじまったんだから。

そうして、意識を霞の怪我へ集中させた。

一方の、愛美の心中は。

怒り狂っていた。ただし『帽子屋』にでも、むろん霞にでもない。自分自身にだ。

罠を、見抜けなかった。完全に隙を突かれた。

「でも、もう二度と同じ手は食わない」

魂か何かに刻み込むように、呟く。

「許さないわ――絶対にね!!!!」

叫ぶより早く、愛美は<力>を迸らせた。木刀の間合いから離れ、宙に浮かぶ『帽子屋』を不可視の<力>が襲った。

「ナニッ!?」

がくん、と『帽子屋』の身体が落下し始める。重力の戒めが復活したのだ。

「"アンチ・サイ"カ!」

何とか態勢を整えて着地した『帽子屋』だが、その表情は驚きに満ちている。今まで和泉達也の顔を借りて生徒会メンバーとも関わってきたが、彼女にこんな能力があるとは知らなかった。

無理もない。"アンチ・サイ"は超能力を阻害、あるいは中和する"超能力"だ。信吾のような肉体派はともかく、龍之介を代表とした超能力を主戦力とするメンバーとは相性が悪い。だから、滅多に使わなかった。

そして不幸なことに和泉達也は、愛美から隠された能力について教えられる程の信用を勝ち得ていなかったのだ。
結果的に、『帽子屋』は自分自身に欺かれた。

「そこだあっ!」

チャンス到来とばかりに、信吾が渾身の力を込めて木刀を振り下ろす。

がんっっっ!!

「くおっ!?」

重い衝撃に木刀が跳ね返され、信吾は転倒した。追撃から逃れるために何度か転がった後、顔を上げた信吾が目を見開く。
愛美も、そして龍之介も言葉なくそれを見つめていた。

それは闇だった。夜のもたらすものより暗く、果てのない漆黒。球形のそれは、『帽子屋』を守るように包み込んでいた。

どくん、どくんっ。

「生きて……る……?」

龍之介の声は驚きと恐怖にひび割れた。闇が脈打つところはそんなに怖いわけでもないのに、どうして?

「くっ……どうしたというのだ……!」

信吾もまた、震えていた。いかなる強敵と対しても震えたことなどない彼の右手が、刀が恐怖に怯えている。自分自身でも、信じられない。

そして、愛美も。

けれど彼女は、その恐怖の正体を知っていた。

「……来たわね。『ジャバウォック』……!」

それでも、さすがの愛美ですらも、恐怖そのものを目の前に平然としていることはできなかった。

 <――退くぞ。『帽子屋』>

闇が震え、言葉を紡いだ。その一言一言が愛美たちを打ちのめし、怯えさせる。『ジャバウォック』の<力>は、恐怖そのもの。
それは、『帽子屋』でも例外ではない。

「……退く、だと!?『ありす』さえ手にしていないのに――」

先程までの凶悪さは消えていたが、声は震えている。

 <『ありす』は既に我が手の内にある>

「何ですって!?」

愛美の脳裏に和泉達也の姿が浮かぶ。
守りきれなかったのだろうか、彼は? あの子を。もちろん、あの子が『ありす』でなかったのかもしれなかったが。
……いや、彼はそう信じていた。唯一、『ありす』を知るであろう彼が。

 <この世界に干渉する必要はなくなった。退くのだ、『帽子屋』>

「だが、こいつらの始末が」

 <――ニンゲンナド、ドウデモイイ>

『ジャバウォック』の声が、不意に非人間的なものへと変わった。言葉の内容も響きも凍りつき、威圧感も増していた。

 <カエルゾ、『帽子屋』>

「……ちっ」

元より『帽子屋』に拒否する権利などなかった。そのまま残って戦っていても、ろくに<力>のない彼は倒される。退くしかないのだ。

そして、彼の舌打ちがすべての返答になった。

闇は形を変え、巨大な手を生み出した。爬虫類の、更に言えば恐竜のような手だ。鱗がびっしりと生えた手に捕まれた『帽子屋』は、そのまま闇へと飲まれていく。

「く……ま、待て……!」
「無駄よ。間に合わないわ」

追いすがろうとする信吾を、愛美が止めた。振り払う力もなく、信吾は膝をついた。自分でも驚くほど消耗している。

「これ程の力とはな……恐ろしい相手だ」
「逃げられた、か。どうするんだい、愛美ちゃん?」

霞の手当てを終えたらしく、龍之介がほっとする笑顔を見せた。それに対して、信吾は怒りに燃える顔つきだ。

「決まっている……! 奴らを追うぞっ!」
「鬼堂には聞いてないって。だいたい、そんなフラフラで追えるのか?」
「き、貴様よりは役に立つ!」
「てめー……」

げしっ。どかっ。ごすっ。

「おのれ、天草!動けぬ者を攻撃するなど、日本男児のすることでは――!」
「俺にはバンパイアの血が混ざってるよーん。うけけけけっ」

べきっ。めしゃっ。ずどっ。

「う、うううう……」
「ふっ……美しいうえに強いなんて、俺って罪な男」
「馬鹿なことしてないで、行くわよ。まだ間に合わないと決まったわけじゃないわ」

そう。
愛美は諦めていない。
いや、信吾や龍之介だって諦めていないのだ。とてもそうは見えなくても。
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