闇は、月影に惑う
「私たち、ずっと一緒よ。」

声が響く中、私は走る。

「離れてしまうけど、ずっと。」

その声にも立ち止まることはない。

「ずっと、一緒よ……。」

問いかける声は小さくなる。

「ずっと、ず…と、い……よ…」

振り返らない、答えない。
私は、ただ、ただ、走り続ける。

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矢影乙女は、そこにいた。

だが、注意をしてみなければ、誰もその人が彼女だとは思わないだろう。
普段の彼女とは思えないほど、清楚な服装だったから。
いや、そもそも、この場所にいること自体が似合わない。

「ふぅ……」

大きく息を吐くと、彼女は前髪を掻き上げた。
その仕草には人の目を惹きつける何かがある――いわゆる「遊びなれした女」。

だが、今日は違う。

彼女のまわりをいつも取り囲むようにしている親衛隊や、使いっ走りの連中は影も形も見えない。

代わりにあるのは。

磨かれたばかりの碑。
捧げられて間もない花。
立ちのぼる一条の煙。

――お久しぶり。

碑に刻まれた名前を愛しげに見ながら、乙女はそっと呟いた。

――義也さん。

「……な、乙女。」

予期せぬ声に身を堅くしつつ、後ろを振り返る。

「何をそんなに驚いておるのじゃ?」
「雷顕さん……」
「ここは、儂の寺じゃ。儂がおるのは当たり前だろうが。」

雷顕は和やかな笑みを浮かべたまま、ごつごつしたその手をそっと乙女の肩に置いた。

「しかし……相変わらずじゃな、年に2回とはいえ、必ずここに訪れ亡き人を想う心は……生まれ故、か……。」

この世に生まれる命には2通りある。

一つは、母の胎内より生まれし者――人間。
もう一つは、人間の想いが生命を宿した者――それを人は妖怪という。

人間に、その存在が願われ、望まれ、疎まれ、嫌がられ、生まれ出る。
時には、たった一人の強い想いが生み出すこともある、それが妖怪。

人間が及びもしない、超常的な能力を持つ者たち……。

ここにいる乙女も、そして雷顕も、人間ではない。

乙女の正体は「夜叉女」。インド神話の神霊が仏教に取り入れられた夜叉の女形。
雷顕は、愛知県に伝わる民話の中に出てくる、雷神の子「道場法師」。
夜叉を、道場法師を、実在すると信じた人間たちの思いが、彼らに命を吹き込んだ。

「いくら、生まれでも、これは私の柄じゃないわ。」
「夜叉は夜叉でも、お主の場合は言葉から生まれたか?」
「……夜叉は怖いもので、遊んでるらしいから……」

強迫観念とでも言うべきか。
人間の思いから生まれた存在であるだけに、妖怪は人間の思いの通りに行動してしまうことがある。たとえ、自分がそうしたくなかったとしても。

「ま、私には性に合ってますけど。」
「これっ、想い人の前でそんなことを言うもんじゃない」

ごつっ。

「痛っっ……これ以上、馬鹿になったらどうするんです?」
「大丈夫だ。それ以上はひどくならん。」
「ひっどーーいっ!」

むくれた乙女の顔が相当面白いものだったか、雷顕は大きな声で笑い出した。
その豪快な笑顔を見ているうちに、乙女自身もつられたようだ。
いつの間にか辺りには大きな笑い声がこだましていた。

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それは、月がまだ天空にある刻。

扉を後ろ手で閉めると、乙女はゆっくりと顔を上げた。
目を軽く走らせ、2町ばかり離れた集落を確認する。
どの家にも明かりは灯っていない。

「何をするつもりなの? 闇緒っ!」

闇緒と呼ばれた女は、月明かりがその姿を照らし出すようにその場に立ち止まった。
鏡に映すよりも、はっきり、くっきりと映し出されたシルエット。
その姿は――。

「決まっているわ。夜影、あなたは私だけのものなのよ、誰にも渡しはしない。私とあなたは一緒なのよ。」

矢影乙女そのものだった。

「その名は捨てたわ。私は、矢影乙女、よ。」

その声を聞いても、闇緒は薄く笑みを浮かべるだけだった。

「どうかしらね? 本当に捨てたのなら『やかげ』という音を捨てるはずよ。」
「…………。」
「さ、私と一緒に帰りましょう。」
「……無駄よ……」
「そうかしら? 私はあなた。あなたは私。あなたのことを誰よりも良く知っているのは私よ、夜影。そうでしょ?」

口元に浮かべた勝ち誇ったような笑みに凶悪さが加わった。
その笑み以外に二人を区別できるものはない。

「違うわ。」
「違わない。私とあなたとは一緒なのよ、良く見て! あなたの姿と私の姿を!」
「…違う、…違う……」
「どこが違うというの?」

雲が月を覆い隠した。

うすらぼんやりとした空気の中、闇緒は優しげな口調で乙女に近づく。

「あなたの淋しさ、苦しさ、辛さ……すべて私が知っているわ。私だけがあなたのことを本当に分かってあげられるのよ。」
「そんな……」
「私なら、心の底からあなたの気持ちを共有できる。」
「……ちが、う…」

闇緒の囁きに、一瞬だけ隙が生まれた。

刹那。

「夜影……」

甘い吐息が乙女の耳をくすぐった。

<瞬間転移>。

闇緒の使う術の一つ――影を媒介にした<門>だ。

「離、し、て……闇緒」
「もう離さないわ。あなたは私だけのものよ。」
「は、な、し……」
「また暮らしましょう、里で一緒に。」
「……あぁ……」

畳みかけるような闇緒の言葉の波に、乙女は流されていた。

とろけるような感覚。
甘美な囁き。
闇が乙女の意識を覆い隠していく。

と、その時。

「乙女っっ!」

闇をかき分ける声が辺りに響いた。

「どうしたんだ、乙女! 大丈夫か?」
「私が後ろを向いたら、どう想うかしらね、あなたの想い人は。」
「闇緒………?」
「あなたと同じ顔が角を生やしていたなんていうのはどうかしらね。」
「やめて! 闇緒!」
「……夜影。あなたは、誰にも渡さないわ。」

凶悪な笑みは、影を帯びた。

「愛なんていうものに縛られているあなたを、私が助け出してあげるわ。」

一歩飛びのくと、闇緒は「夜叉女」へとその姿を変えた。
乙女を一瞥する彼女の瞳からは悪戯めいた光が消え、冷酷さと残虐さが宿っていた。

「そこで待ってなさい、今、あなたを助けてあげるから。」

音もなく地を蹴ると、闇緒は天高く舞い上がっていた。
月明かりを背中に受けたまま。

「…………!」

長い間、二人は一緒だった。
夜叉の里にいた時も、今も、ずっと。
心のある一部分は離れていても、ずっと一緒だった。

だから、時間がかかったとしても、きっと分かり合えると信じていた。

乙女は今の今まで信じていた。

それがすべて、裏目に出た。

「させないっっっっ!!!!!!!」

闇緒の目的が分かった、今。

乙女は、飛んだ。

角を生やし、牙を生やし、漆黒の肌に身を包み、明らかに人外の姿を取って。
低空を目標物まで一直線に「夜叉女」が飛んだ。

「義也さん、逃げて!」

ざしゅっ。

「よ、し、や、さ……」
「……乙女、乙女っっっ!」
「どうして、どうしてなの!?」

闇緒は困惑していた。

確かにさっきまで、夜影は自分と同じように空を飛んでいた。
飛ばなければ追いつけるはずがないから。
自分と同じ異形の姿を夜影の想い人に見せる、それが闇緒の第1の考えだった。
そこまでは思い通りに運んでいた。

――なのになぜ?

「乙女、乙女!」
「よ、し、や、さ…ん……にげ……」
「……あのままなら、このくらいの傷なんてなんでもない! そんなに、その姿を隠したいの!?」
「それは違う。乙女は、隠したかったんじゃない。おそらくは……」

涙に濡れた双眸は悲しげに闇緒を見据えた。

「俺に、この姿を見せていたかったのさ、人としての今の自分を……」

そう言う声は震えていた。
自分の愛した人が、人間ではないという現実を突きつけられているだけではない。

鬼がすぐ側に立って、自分に敵意を向けているのだ。

彼だって、怖くない訳がない。
だが。

「うそよ、そんなの嘘よ!」
「俺はあなたの言う『ヤカゲ』のことは知らない。だが、俺は矢影乙女のことならあなたより良く知っている。」

そう言うと、義也は自分の腕の中で微動だにしない乙女を見つめた。
優しく、暖かく、そして、愛しく。

「『夜影の名を捨てて新しい道を歩きたい』、乙女は言っていた…」
「そんなの、あなたの勝手な作り話よ!」
「俺は捨てないほうがいいと言ったんだ。夜影の頃があったから、今の君があるんじゃないのかってね」
「そんなの、あなたの勝手な作り話よ!」
「彼女はまっすぐに俺を見て言ったんだ。『そうね。過去がどうであれ、今の自分に胸を張っていたい』……だから、俺が「矢影乙女」と名付けた。彼女が彼女らしくあるように」

闇緒は激しくかぶりを振った。

「私が、夜影のことを一番良く分かってあげられるのよ。私以外に誰が夜影のことを分かってあげられるっていうのよ!」
「夜影のことがあなたには分からなくなった。それが淋しくて、怖くて、自分の世界に取り戻しに来たんだろ? あなたは、今の夜影の気持ちが分からないことに自分で気づいているはずだ!」
「うるさいわね! あんたに夜影の何が分かるって言うのよ!」
「分からないね。だが、分からない方がいいんだよ。」

優しげな眸が闇緒を見つめた。

「分からないからこそ、分かり合おうと相手のことを考えるのだから。」
「違うわ、そんなの違う…違う、違う、違う!!」

闇緒はさらに激しく頭を振る。

「あなたのせいよ、あなたが私の夜影を……許さない!!」

闇緒の手に握られた剣が、月の光を受けて鈍く輝く。
淋しさ、悲しさ、孤独、恐怖、……闇緒の想いを受けて、剣は輝きを増す。

「私の夜影を返して!!」

一閃。

大地がその色を悲しみへと変えた。

「私から、私の夜影を取ろうとするあなたが悪いのよ。」
「乙女には、乙女の思うように生きていて欲しい……」

数時間後。

人々は、義也の腕の中で虫の息だった乙女を助けた後、口々に言った。

―― 一体、何があったんだい? 義也さんは、まるで、あんたを浚いにきた鬼から守ろうとでもしたような様子だけど。


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夕陽が辺りを照らし出した。
影が長くのびる刻。
乙女の時間の始まりだ。

左手首を返して、時間を確認する。

「もう、こんな時間……。」
「ここは毎日儂がしっかり見ておる。大丈夫じゃ。」
「よろしくお願い致します。」

そう言うと乙女は、墓碑に向き直った。
乙女の頬が赤らんだようにおもえるのは、夕陽のせいだろうか?

――私は、「私」でいたい。

あの時、闇緒と帰っていれば、義也さんは生きていた。
それなら、せめて。
あの人が、命と引き換えにしてまで望んでくれた通り、生きたい。

――私は、「私」。

もう一度碑を見つめると、乙女はきびすを返して雷顕に深々と頭を下げ、夜の街へと駆け出していった。

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