〜プロローグ〜

庫門蒼馬(こもん・そうま)の朝は早い。
朝5時には目を覚まし、眠気でふらふらしながらトレーニングウェアに着替える。
寮の管理人さんに挨拶しつつ、外へ。
まだ冷たい朝の空気に触れ、次第に眠気が引いていく。
身体を軽くほぐした後、蒼馬はゆっくりと走り出した。

「……」

一定のリズムで走る。
スピードはそれほどでもないから、呼吸も乱れることはない。
何しろ小学生の頃から続けている日課なのだから。
(ガキの頃から、か……くそっ)
不意に「嫌な奴」のことを思い浮かべ、蒼馬は顔をしかめた。
大柄で筋肉質の体、いかめしい顔つきと、標準的な高校生の域からは脱している蒼馬がそうすると、かなり怖い──らしい。
だが、そんな表情をまるで怖がらないのは……その「嫌な奴」と、もう一人だけ。

「……はぁ」

らしくない溜め息を吐き出しつつ、蒼馬は走り続けた。
1時間近いランニングを終え、寮に帰ってきた蒼馬はシャワーを浴びた。
浴室から出てスポーツドリンクを飲みながら、しばしの間ぼうっとする。
彼の部屋は同世代の男性並みに散らかっている。
武道・格闘技関係の雑誌や本が多いのが、特徴といえば特徴だ。
やがて蒼馬の視線は、机に置いてあるフォトスタンドに向けられた。

「……」

そこには、まだ幼さの残る学生服姿の蒼馬と、どこか冷めた視線の少年が並んでいた。
佑苑若杜。
彼と出会ってから、蒼馬の人生は変わった。
そう言っても過言ではない。
小学生の頃からガキ大将だった蒼馬を、徹底的に叩きのめしたのだ。

「ったくよ……お前は変わらねえよな」

蒼馬はフォトスタンドを手に取り、当時の思い出を脳裏に巡らせた。

「おい、佑苑! 勝負だ!」
「……そうですか。頑張ってください」
「あ、てめえ! 逃げんのかよっ!」
「お好きなように判断してください。では」
「……本当に嫌な奴だよ。俺を相手にもしねえ」

どんなに勝負を挑んでも、のらりくらりとかわされてしまう。
運良く勝負となっても、蒼馬が勝てたことは一度としてない。
腕ずくの勝負も然り──佑苑は物静かな外見に反して、実は容赦がない。
だが、その状況は変わろうとしていた。

「"改新"か……」

つい数日前、妙な女から話された真実。
蒼明学園生徒会メンバーに秘められた力。
催事実行委員長である佑苑に流れる血脈。
そして、<世界律>という名の不条理な現実の存在。
すべての真実を完全に理解できたとはいえないが、少なくとも分かったことが一つ。

『貴方は佑苑若杜に勝てない』
『<世界律>は貴方の勝利を認めない』
『何故なら、貴方は世界にとって取るに足りない人物だから』

そのこと自体は、それほどショックではなかった。
蒼馬は自分の力量が測れないほど粗暴な若者ではなかったし、世界云々はスケールが大きすぎて実感できない。
無論、悔しさが全く無いと言えば、嘘になるが。

「佑苑が──アイツが俺とは違う、なんて分かってたさ。ずっと前から」
『では何故、貴方は彼に挑むの?』
「それは……」

憧れ? 違う。憎しみ? それも違う。
ずっとずっと考えていた結論を、蒼馬は女に告げていた。

「強くなりたいんだよ、俺は。だから……アイツに挑む」
『それは武道に生きる者としての血が言わせるのかしら? それとも、男の浪漫?』
「知るかよ。俺にだって、分からねーし」

そう。
細かい理屈はどうでもいい──そう思っていたのだ。
けれど。
女の次の一言が、全てを覆した。

『──彼は、いずれ死ぬわ』
『佑苑若杜……彼の血脈は古き闇の一族のもの。時が経てば血の力は増し、彼の心を蝕むわ』
『そして彼は破壊衝動に呑み込まれ、滅びを迎える──それも<世界律>の定め』

女は笑っていた。
震える蒼馬の耳元に唇を寄せ、甘く囁く。

『彼を救う方法はたった一つよ──』
「……たった、一つか」

蒼馬は目を閉じる。
佑苑がどうなろうと、彼はあまり気にしない。
自分より強い奴なのだから、自力で何とかしてくれ、というのが正直な気持ちだ。
が、佑苑若杜の妹──蒼馬を怖がらず接してくれる、もう一人の人物──双葉のことを思うと、蒼馬の気持ちに迷いが生まれる。
いい子なのだ、あの少女は。
あの佑苑の妹とは信じられないほどに。

(泣いちまうかな……やっぱり)

あんな冷酷非情で血も涙もない兄が居なくなれば、きっと寂しいだろう。

「……たった、一つしかねえんだ」

蒼馬は、目を開ける。
その双眸に宿る決意の炎は、どこか暗く──冷たい輝きを放っていた。

「今度の決闘は受けてもらうぞ──佑苑」

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