〜プロローグ〜

……僕が彼女と出会ったのは、実はこの蒼明学園が初めてじゃない。

けれど彼女は覚えていないだろうし、僕だって彼女と再会するまで半ば思い出の一つとして胸の奥にしまったままだったから、この学園での『再会』が僕らの初めての出会いと言えるかもしれない。

……そう、いっそ初めてであれば良かったのに。

彼女のことを、思い出さなければ良かったのに……。
あれは、確か小学5年生の頃のことだ……。

ミーンミンミンミーン……。

蝉の鳴く声が暑さを増しているようで、僕は汗を拭いながら顔をしかめた。

夏休み。
僕は母方の祖母の家へ遊びに来ていた──というのは、子供の僕に対する親たちの言い訳みたいなものだった。当時、僕の両親は事業に失敗し、金の工面に必死だったのだ。僕には詳しいことなど何も分からなかったが、両親が僕に笑顔を見せなくなった辺りから、何かが起きている事だけは察知していた。
そして今にして思えば──たぶん、僕は『餌』に使われていたのだろう。祖母たちの同情を引くための、道具。

「暑いなぁ……」

深刻そうな両親や祖母の側にいるのも退屈だった僕は、外へ出かけた。馴染みのない街は歩くだけでも楽しい。
時々、自動販売機でジュースを買っては一気に飲み干した。
行く場所は決めていなかったが、とりあえず海岸へ出てみようと思った。子供の僕だと、祖母の家からはかなり距離があった。一度、もっと小さな頃に同じ事をやろうとして挫折した経験がある。

「……よーし。今度こそ!」

僕は大冒険をするような気分になって、海へと向かった。
ほんの数年前は辿り着けなかった距離を、暑さに閉口しながらでも歩いている。そのことに、幼い日の僕は軽い興奮を覚えていた。自分が成長した事実を実感できることが、嬉しかった。
やがて、空気の中に少しずつ潮の香りが混じってくるようになった。

(やった!)

ゴールはもうすぐだ。疲れは喜びに吹き飛ばされ、僕は一気に駆け出した。波が打ち寄せる音も聞こえてくる。

「! うわぁ〜」

目の前に広がる海に、思わず大きな声を漏らした。

「やったぁ!」

僕は砂浜に入ると、足元に落ちていた空き缶を海に向かって放り投げた。空き缶はぽちゃんと海面に落ちると、波に揺られながらまた戻ってくる。

「へへ……」

誇らしい気持ちを胸に抱きつつ、僕は周囲を見回した。
すると──。

「……?」

僕と同じくらいの女の子が、波打ち際で佇んでいるのが見えた。
何をすることもなく、ただ海を見つめている。

(……こっちの子じゃないみたいだ)

着ている服や、あまり日に焼けていない肌を見てそう思った。僕は好奇心に駆られ、ゆっくりと彼女に近づいた。
少女が僕のことに気がついた様子はない。

(驚かせてやろうかな)

などと考えていると。

「……君、何の用?」

少女が振り向きもせず、僕に呼びかけてきた。思わず、僕は足を止めた。

「え、えっと……その」
「用がないなら、話し掛けないで。私、邪魔されるの嫌いなの」

大人びた口調だった。無理をしてそう振舞っているのではなく、ごく自然な言い方。それでも機先を制せられたことに不満を感じていた僕は、彼女の態度に更に不満を覚えた。

(生意気なヤツ)
「邪魔されるって……何もしてないじゃんか」
「考えてるの」

そう答える彼女の横顔は……今でも上手く言い表せない。目の前の何かに立ち向かうことをまるで恐れずにいる一方で、すべてのことに不安を感じているような表情。強さと弱さが渾然となった横顔。
その時の僕には、彼女が僕より大人である、という捉え方しかできなかったが。

「何を?」
「これからのこと」

妙なことを言うな、と僕は正直に思った。
すると彼女はようやくこちらを向き、からかうように言った。

「私、家出してきたの」
「え!?」
「正確に言うと、パパを探しに来たの。でも駄目ね。子供が持ってるお金じゃ、行けるところなんてたかがしれてるもの。泊まる場所だってないし」

衝撃的なことを、彼女は平然と口にする。

「やっぱり家に帰った方がいいかしら? でも何もできずに帰るなんて、悔しくない?」
「え、あ、それは……」

いきなり質問されて、僕は狼狽した。家出の経験なんて、一度もない。

「けど帰らなきゃ……お母さん、心配するよ」
「……そうだね」

彼女は少し冷たい笑みを覗かせた。

「でもいつかは忘れちゃうの。大切な人のことでも。……だからパパは帰ってこないのかな」
「……」

その言葉に同情してもらおうとか、そういった気持ちは感じられなかった。彼女は他人から見ても辛い事実をありのままに語る。ひょっとしたら僕に質問しているのではなく、考えを洩らしているだけなのかもしれない。
実際、彼女は僕と見つめようとはしなかった。

「君はどうしてここに来たの?」
「……来たかったから」

まさか冒険気分で挑戦した、なんて言えなかった。家出を敢行している彼女に比べたら、遊び同然だ。

「ふぅん」

やや短めの少女の髪を、潮風が通り過ぎていく。
彼女は僕に興味をなくしたのか、再び海を見つめたまま何も言わなくなった。僕も彼女に語り掛ける術を持たず、少ししてからその場を離れた。
砂浜から出る時、一度振り返ったが、彼女は真っ直ぐに瞳を向けたままだった。

「……変なヤツ」

そんな風に片付けるのが、僕にとっては精一杯だった。心の中では彼女に羨ましさや反発心を感じながら、表に出すことをできずにいた。
それが何より悔しかった。僕よりも遠い先を見つめ、挑んでいる彼女という存在を憎んだ。
その反面で……僕は彼女に惹かれていた。

……これが僕と彼女の初めての出会いだった。

「──そして、この蒼明学園で君たちは再会を果たした。……実に運命的なことだ」
「皮肉かな、それは」

回想に耽っていた僕を揶揄するような言葉が、頭上から投げつけられる。
僕は動揺を出すことなく、ゆっくりと振り返る。声の主が宙に浮いていることは分かったから、視線も上を向く。
高等部校舎の屋上で、僕とその男──橘哲也と対峙した。
いや、今の彼は「橘哲也」ではない。

「事実だ。この蒼明学園では、“そういうこと”が起こりやすい。だからこそ、"我々"はこの地で"改新"を始めたのだ」
「……千年以上も昔から、ですか。"右近"?」

そう、彼の名は"右近"。"裏生徒会"の重鎮の一人。僕を闇へと誘った存在……。
彼は宙に浮いたまま口元に小さく笑みを浮かべ、僕を見つめた。

「その通りだ。だからこそ、今回は失敗するわけにはいかない。分かっているな、"中務"」
「ええ、十分承知しています」

彼の暗い瞳に気圧されつつ、僕は睨み返す。
"右近"の人知を越えた力は理解しているつもりだ。けれど僕が真に恐怖しているのは、彼らの瞳に宿る暗闇。
まるですべてを飲み込もうとする果てのない絶望が、そこにある。
だが屈するわけにはいかない──僕は歯を食いしばった。

「それでも、僕には破壊したい"世界律"があります。あなた方の思惑に従うのは、その後でも構わないはず」
「……彼女か」

"右近"の笑みが冷たいものへと変わる。

「君は彼女を愛しているのか? それとも憎んでいるのか? 非常に興味深いところだが」
「あなたには関係ない」

僕は視線を逸らし、フェンスの傍から校舎を見下ろした。
今は放課後だ。生徒たちが次々と校舎から出て、家路につくところだ。友達と語り合いながら、楽しそうに笑っている。本当に、楽しそうに……。

「……僕と彼女にはできないんだ。楽しく語り合うことは……」

僕は知ってしまった。思い出として胸に刻んでしまった。
彼女の、あの表情を。
そして僕と彼女との、絶対的な距離を。

「この蒼明学園で初めて出会っていれば……僕は彼女を普通に想うことが出来た。けれど"世界律"は僕にそれを許さない。僕は彼女を羨み、憎み、哀れみ……愛さなければいけない」

なぜだろう。なぜ出会ってしまったんだろう。そしてなぜ思い出してしまったんだろう?
彼女と再会した時、僕にはすぐに彼女だと分かった。


「江島愛美です。よろしくお願いします」

彼女の物腰はどこか不敵でありながら、余裕さえ感じるほどの雰囲気で他の生徒たちとは異彩を放っていた。髪型は変わっていたが、瞳に宿る強い輝きはそのままだった。
「選挙管理委員長になりました。でも、こちらにも参加しますから安心して下さい」

正直、彼女が生徒会に入るとは思っていなかった。僕の中の彼女は、たった一人で何かを目指しているような印象だったから。それでも、この時は気にしていなかった。

「コピ研に入ったわけですか? ……繋がり、なのかもしれません。私がそう思っているだけですけど」
(でもいつかは忘れちゃうの。大切な人のことでも。……だからパパは帰ってこないのかな)

ああ、そうなのか。
彼女はまだ探し続けている。大切な人を、忘れることなく。
僕の中で、消えていたはずの想いが再び目を覚ますのを感じた。けれどそれは、ひどく複雑な感情に縛られ、僕は戸惑うしかなかった。
僕は彼女をどう思っているのか──肝心なその一点が、歪んでしまっている。
なぜだろう。
なぜ出会ってしまったんだろう。
そしてなぜ思い出してしまったんだろう?
思い出の中の彼女を知る限り、僕は彼女へ近づくこともできないのに……。

「……だからこそ、君は欲しいのだろう? "世界律"を"改新"する力を」

甘く誘う、"右近"の言葉。
分かっている。これが奴らの手段ということは。でも……それでも僕は、このままではいられない。
僕が望むのは、彼女の心だ。
強くあろうとする、魂の輝き。それを奪えば、きっと彼女は彼女でなくなる。だが、そうしなければ僕の想いは彼女に届くことがない。
おそらくは、永遠に。
だから例え自分のやろうとしていることが、どんなに愚かであろうとも──。

「我、"八省"が一つ、"中務"。我が望みを阻む"世界律"を"改新"するため、今ここに決闘の誓いを立てん」

僕は天に向かって誓う。
それだけが、僕に残された最後の手段だから。

「江島愛美──君を倒し、僕は"世界律"を"改新"しよう」

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© 1997 Member of Taisyado.