プロローグ

走り続ける。
ただまっすぐに、走り続ける。
身体はもう、勝手に走っている。彼女が命令するまでもなく、足や腕や…自分というすべてが走ることを望んでいる。

空気を切り裂いているような感覚を全身に浴びる。安直な言い方をすれば、彼女は風になっていた、となるだろう。
そして、ゴールに辿り着く。この瞬間が、彼女はたまらなく好きだった。
流れる汗と湧き出す疲れも、心地いい。

――がんばってね…。

ふと思い出した言葉に、汗が心地よさをなくし、一瞬で冷え切ってしまった。唇を噛み締める。

「――おーい! もう上がるかー?」

同じ部の少年が大声で尋ねてくる。見ると他の者たちも帰り支度を始めていた。

「…もう少し走っていくわ。」
「無理すんなよー」

彼女が一人で練習を続けるのは今日に限ったことではない。部のメンバーたちも慣れたもので、口々に挨拶をしながら部室へ向かっていった。
それをしばらく眺めた後、彼女はスタート位置についた。

―― …が走っているのを見ると、私も同じように風を感じている気になるの…。

心の中で空砲が鳴った。
また、走り出す。

何も考えなくても、身体は走ってくれる。だから、走ることとは別のことを考える。
いや、考えてしまう。
あの子のことを。

今頃、窓の外の風景を描いているはずの少女の姿が思い浮かぶ。彼女の日常に与えられた行動の選択肢は少なかったが、そのわずかな選択肢でも十分なほど、あの子は何もしようとしなかった。
窓の外を眺めるか、絵を描くか――それだけだ。この時間帯では日差しがきつくて本は読めないだろうから。

いつの間にか、ゴールに辿り着く。
すぐに振り返り、スタート位置に着いた。

――桜、見られるかな…? 来年も、再来年も、その次の年も、次の次の年も…ここからじゃなく、外から見られるかな?

空砲は鳴らない。
それでも、彼女は走り出した。

休まなかった分、全身が早くから悲鳴を上げる。身体の火照りが高まっていく。
まだ駄目。この程度じゃ、比較にならない。
もっと、走らなきゃ。
無駄だと分かっていても…。

何ができる? 何もできない。少女を救う唯一の可能性も、彼女が断ち切ってしまったのだから。

何もできないの? こんなに、こんなに助けたいと想っているのに…。
何もできない。
どれだけ走っていたのだろう。気がつくとゴールが見えなかった。それでも、彼女は脚を止めない。走っていれば、ゴールは必ず見えるはずだ。
だが、見えない。どこにもない。感じることすらできない。

「…なんで?」

<『現実』にゴールはない…君はもう気づいていたはずだ>

声が聞こえる。誰?

<君は今まで走ることで、走ってゴールへ辿り着くことで、何もかも乗り越えていたつもりだった>

妙に大人びた少年の声だ。ひどく冷静で、執着のない声。

<でも、『現実』は違った。そんな小さな行為で乗り越えられたのは、君が抱く負い目だけ…それも、ほんの一瞬の刹那的な逃避行動に過ぎない>

「やめて!」

彼女は走りながら叫んだ。鍛え上げられたはずの心臓が、少年の言葉にかき乱される。
鼓動が、痛い。

「何ができるっていうの!? 私にはもう、何もできないのよ! 優しい言葉なんて使い果たしたわ! 無駄なのよ!」

絶叫。
心の奥にため込んでいた何か、狂おしいほどの何かが解き放たれそうになる。

「あの子は全部分かっている! 分かっていて、あんな微笑みを私に見せるのよ! 卑怯よ! 私が…私が…!」

彼女は知った。
痛いのは、心だ。自分自身だ。そして痛みを与えているのは、鼓動ではない。
『現実』だ。
視界が涙で歪んだ。

「…わ、たしが…」

<どれだけ助けたいかも知らずに、か。深い絆を持つ君たちですら、互いの想いを分かりあえない…しかし『現実』はそういうものだ。決して打ち壊せない、不合理な壁>

「壊したい…」

彼女は呟いた。虚ろな響きがあるのに、なぜか力強さすら感じさせる声。

――桜、見られるかな…?
見させてみせる。

――来年も、再来年も、その次の年も、次の次の年も…。
ずっと、ずっと見せてあげる。

――ここからじゃなく、外から見られるかな?
絶対に、見せてやりたい。

「あの子を…助けたい。そのために『現実』が邪魔になるなら――」
<邪魔になるなら?>

少年の声が、囁く。
彼女の心に。

「…壊すわ。『現実』を…私達を苦しめるものを!」

<――いいだろう>

少年が宣誓するように、言葉に力を込める。

<『世界律』を『改新』させる力を、君に与えよう…『典薬頭』よ>

彼女の瞳に、光が射した。
見える! ゴールが見える! あの先にはきっと…きっと…。
ゴールの傍らには一人の少年が佇んでいた。彼は微笑みを見せ――。

<受け取るといい。これが君の力だ。>

一輪の花を、彼女に差し出した。
美しく輝く、その花を。

「ありがとう…」

その瞬間、彼女はゴールを駆け抜けた。

――助けて…お願い…助けて…。

ひどく弱々しい声が響く。
流れる涙。押し込めた想い。
そして…ほのかに香る、花の匂い。

――ほんの少し。ほんの少しでいい…。

あの香りは何だ?
…思い出せない。どこかで間違いなく嗅いだことのある匂いだ。

――私を…私を…お願い…。

見たこともない花が、一輪、二輪…次々と増えていく、美しく輝く花――だが、不吉なものを覚える。
違う。あの匂いは――桜だ。では、この輝く花は何だ?

――もう一度だけ…。

細く、白い手が差し伸べられる。その手を取ろうと、腕を伸ばそうとする。
しかし。
それより早く、別の腕が闇から差し出され、白い手を優雅に引き寄せた。

――いいだろう…その<奇跡>、私が叶えてやろう…この魔術師がな。

「!!」

叫ぼうとした途端、視界が暗転した。
そして…。

「…まったく、何という夢だ…」

風紀委員長・鬼堂信吾は布団を押し入れにしまいながら、独り言を呟いた。

「これならばまだ、天草が出てくる夢の方がいい…徹底的にやり返せるからな」

学園の制服に着替え、脱いだ着物を意外なほど慣れた手つきで畳む。
日本男児たるもの、パジャマなどという代物を着るなど、決してあってはならないのだ。

身だしなみを整え、鞄と愛用の木刀を持って扉を開けると、そこには信吾の部屋とは相容れない無機的な廊下が続いていた。信吾の方は気にした様子もなく、歩いていく。

ここは蒼明学園高等部校舎の地下に設置された、生徒会本部。その使用者である生徒会メンバーに用意されたプライベートスペースなのだ。学園の運営を任されているだけに泊まり込みの仕事も多く、一流ホテルに匹敵する部屋が与えられている。

信吾も昨日、予想以上に業務が進まなかったため、ここを使ったのだ。ちなみに、彼の使用する部屋だけは畳敷きである。

「――相変わらず早いな、鬼堂」
「…お前か、宝生院」

背後から呼び止められ、信吾の顔がかすかにしかめられた。

「年上の人間に敬語も使えんのか、お前は」
「気にするな――俺も年下の者に敬語を使われなくても、気にしていない」

生活委員長・宝生院宗祇はあっさり言い捨てつつ、信吾に並ぶ。

「――鬼堂、魔術師とは何者だ?」

規則正しく響いていた足音が、不意に乱れる。信吾は慌てて態勢を立て直した。

「誰から聞いた?」
「天草からだ。自慢げに話していたが…」
「あの愚か者が〜っ!」

高笑いしている想像上の清美委員長・天草龍之介に向かって木刀を叩きつける。
そこへ、宗祇の声が飛んだ。

「おい、いきなり振り回すな」

我に返った信吾は、自分が実際に木刀を振り回していたことに気がついた。

「す、すまん」
「気にするな。当たっていない」

この至近距離にも関わらず、宗祇はでたらめな動きの木刀を避け切ったのだ。柔術に精通しているとはいえ、只者ではない。

「すぐに熱くなるのが困りものだな」

この態度も只者ではないけれど。

「…話を元に戻すぞ。お前は魔術師をどう見る? 変人か狂人か大法螺吹きか、それとも…」
「それとも?」

その時、信吾は眉をぴくりと動かした。

「珍しいな、寡黙を自認するお前がそこまで話すとは」

思い出したように、宗祇は口をつぐんだ。実のところ、彼が多弁になりやすいことを信吾はよく知っていた。特に生徒会へ入ってから、それは顕著になったらしい。他では不言実行を押し通しているようだから。

生徒会メンバーには心を開いているという証拠なのかもしれない。

無論、自我を撤回しなければならないほど苦労している可能性はあるが(奴の性格からして「苦労」ではなく、「呆れ」ている可能性が強い――信吾談)。

「…ある事象を疑う時は、まずそれが起きたという事を受け入れなくては冷静な目で判断できない…江島くんはそう言っていた」

選挙管理委員長・江島愛美は魔術師に対してさほど警戒心を持っていない――逆の立場にある信吾からすれば、困りものだ。

「確かに魔術師や裏生徒会は存在するだろう。不思議な力も持っている…だが、信用することはできん」
「だとしたら、どうする?」

宗祇の問い掛けに、信吾は沈黙せざるをえなかった。ほとんどのことが謎のままだ。今の時点で判断するには早計過ぎる――勇猛果敢で鳴らしている信吾には、少々つらい。

「お2人で何話してるんですかぁ〜?」

ハイテンションな少女の声が、二人の耳を貫いた。彼女こそ生徒会一の奇才、会計監査委員長・倉橋べるなである。

「おはようですぅ〜!!」
「その話し方はやめろ…頭痛がする」
「それは君も電波を受け取っている証なんですぅ〜」

UFOマニアにして電波少女(受信だけでなく、送信も可能)のべるなには、宗祇の凄味のある一言も通用しない。
上には上がいるものである。

「それで、話の続きはどうなったの?」

普通の話し方も、一応できるのだ。

「聞いていたのか?」
「電波が届いたんですぅー」

また、戻る。

「盗み聞きをしていたんだろう…隠すつもりもなかったが」
「会えないのかしら?」
「望めばいつでも現れると、魔術師は言っていたがな」

信吾の口調はまるでそのことを信用していない頑なさを露骨に示している。

「まるでUFOみたいでぃーっス」
「呼ぶなよ」

べるなは大喜びで、宗祇の再度の言葉にも聞く耳を持たない。彼女の耳が受け取るのは電波だけなのかもしれない。

「ねえ、鬼堂くん。魔術師ってやっぱりグレイタイプですかぁ〜?」
「…ぐれい? いや、奴は黒い服を着ていたが…」

宗祇はあえて彼の間違いを正さなかった。自分が困ることでなければ、いちいち口を挟まないのが信条だから。

「新種発見! ますます興味倍増ですぅー!!」

飛び跳ねるべるなを横目にしながら、信吾は思った。

――魔術師も、哀れなことだ。

しかし。
彼は知らなかった。
あの夢の意味を…そして、その続きも。
少女の声に気づいたのは、君だけではないかもしれない。

けれど。
桜の香りに気づいたのは君だけなんだよ。
鬼堂信吾くん。

「――はっくしょん! …むぅ、誰か噂でもしているのか?」

事件と恋の噂、かもね。
だから、同情している場合ではないのだが、信吾がそのことに思い至るのは――。
もう少し、先のことである。

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