第5章 確かめる絆 取り戻せない絆
生徒会地下本部のICU。その小さな一室の、小さな椅子に、美咲は座っていた。目の前のベッドには、小さな体の信吾が横たわっている。右手に木刀を握り、点滴や酸素マスクに繋がれながら。子供特有のきめ細かい肌は、今や黄疸の進行によって黄色く濁っていた。

美咲は、ここに入ってから今まで、一言も発しなかった。聞こえるのは、医療機械のごく小さな作動音と、信吾の呼吸だけ。
美咲は無言のまま、信吾を見つめながら、硬めのベッドに両肘を置いた。肘が置かれた部分が沈み、信吾の手が滑って美咲の腕に触れた。

その瞬間、美咲の目から大粒の涙がこぼれた。
美咲は、両手で信吾の手を包んだ。高熱のために、ひどく熱い。信吾の手は小さく、力を入れれば崩れてしまいそうで、美咲は握り締めることができなかった。

 どうして……?

美咲の心を支配していたのは、この言葉だけだった。

 どうして、信吾が子供に戻されねばならないのか?
 どうして、信吾が死に瀕しなければならないのか?

美咲は、奥歯をキュッと噛み締めた。

 どうして、自分には信吾を救うことができないのか。
 どうして、自分には何の力も無いのか。

信吾の仲間、生徒会役員たちは、あれほど強力な力を持っているというのに。信吾を救うために、あれほど必死になっているというのに。

 どうして、自分は何の役にも立てないのか!

悔しさが彼女の胸に満ち、そしてあふれた。
その時だった。美咲の脳裏を、ある疑問が走り抜けていったのだ。

 (私は、鬼堂さんにとって、必要な存在なのだろうか……?)

その疑問が残していった足跡は、まるでガン細胞が増殖していくかのように広がり、美咲の心を侵していった。
こんな疑問が浮かぶのは、初めてのことではなかった。それどころか、信吾に出会い、消えるはずだった命を救われ、そして一鉢の桜を送られたあの日から、何度となく生み出されてきた疑問だった。自分はこの人に求められているのだろうか、と。
今までは、その疑問が生まれても、すぐに叩き潰すことができた。その手を後押ししてくれたのは、信吾の力強い励ましだった。彼の、遠慮気味で小さな笑顔だった。
そして、あのダンスパーティーの夜だった。

しかし、疑問を打ち消す手を支えてくれるはずだった信吾は、今や彼自身の命をも支えきれずにいる。そして、すぐ側にいる美咲は、何の支えにもなれない。
美咲の心を侵した疑問は、やがて恐怖という腐臭を放ち始めた。

(今考えれば、自分は鬼堂さんの態度を、都合よく解釈してきただけなのかもしれない。"花散里"事件の時、鬼堂さんの言った「簡単に諦めるな」と言う言葉。もし、そこに込められていたのは彼の熱い情熱ではなく、赤の他人に対しての単なる形式でしかなかったとしたら? いつも鬼堂さんが見せてくれた、あの遠慮気味な小さい笑顔は本心からのものではなく、遠回しの拒絶だったとしたら? あのダンスパーティーで共に踊ってくれたのは、単なる気紛れでしかなかったとしたら!?)

闇をともなった恐怖が、じわじわと美咲を侵していく。
しかし、まだ残っていた一欠けらの希望が、ささやかな反撃を開始した。
だが、子供に戻った信吾は、あんなに懐いてくれたではないか。美咲にくっついて、あんなに甘えてくれたではないか。
しかし。
小さな信吾は、自分の身すら守ることができなかった。
自分を守ってくれる存在を必要としていた。そして、一番近くには美咲がいた。だから美咲を頼り、美咲に懐いた。しかし今、信吾は生徒会地下本部のICUという強力な守護者を得ている。

「……やっぱり、私がここにいる意味なんて、無いのかな……」

美咲は、右手で自分の胸元をぎゅっと押さえ付けた。
胸を内側から突き破ろうとする苦しさの塊を、押しとどめるために。
だが、そのためには、美咲の手はあまりにも小さすぎた。
……美咲は、それまで包み込んでいた信吾の小さな手を離した。そして、ゆっくりと席を立つ。

 何の役にも立てないのなら、負担にしかならないのなら、初めから近くにいない方がいい……。

美咲は信吾の顔をもう一度見つめた後、迷いを振り払おうとするかのように、一気に踵を返した。そのまま自動ドアへと向かう。
ドアが開く、その直前のことだった。

「行ってしまわれるのですか?」

落ち着いた感じの、若い女の声だった。無論、美咲の声ではない。そして、このICUの中には、信吾と美咲の二人しかいないはずだった。
美咲は弾かれたように、体を反転させ、声の主を探した。
その女は、信吾のベッドのすぐ脇に、寄り添うように立っていた。
頭の後ろで結わえた、腰まで届く真っすぐで艶やかな黒髪。きめ細やかで、透き通るような白い肌。しかし、そこにか弱さは微塵もなく、すらりとした体躯を包む、剣道の道着にも似た和装が、りんとした空気を漂わせていた。

「あ、あなたは……?」

突如現れたその女性に、恐怖のこもった視線を向けながら、美咲はそう尋ねた。
その女性は、美咲に静かに一礼すると、澄んだ声で答えた。

「突然の参上、お許しください。私は魔術師率いる二十二の魔宝が一つ<正義>と申します」
「<正義>…さん?」
「はい。現在は、鬼堂信吾様をお館様と仰ぎ、お仕えしている身です」

美咲は、落ちつきなく周りを見回しながら、怖ず怖ずと尋ねた。

「でも、でも、いったいどこから……?」
「不審に思われるのも無理はありません。私、魔宝<正義>は、主が望むとおりの武器の姿を取ることができるのです。普段は、木刀の姿でお館様のお側に置いていただいております」
「ぼ、木刀!?」

そう言えば、今まで信吾が握ってた木刀が、いつのまにかベッド上から消えている。信じられないと口走りそうになったが、美咲はその声を飲み下した。彼女も、魔術師の『奇跡』を目のあたりにし、その身に受けているのだ。変身くらいで驚いてはいられない、と、自分を叱咤する。

……叱咤して、どうするのだろう。これからICUのドアを抜けてしまえば、もう、生徒会との、信吾との関わりは消えてしまう。もう、『奇跡』を目にすることなどないのに……。それに、これでもうハッキリしたではないか。信吾は、美咲よりも<正義>を頼りとしている。
子供に戻り、病にふせっても、この<正義>だけは手放さなかったのだから……。

「それじゃ、私はこれで……。鬼堂さんを、よろしくお願いします」
「お待ちください!」
「えっ」

美咲が思わず振り向くと、<正義>が、その切れ長の目を半ば睨みつけるように細めていた。

「お館様を、お見捨てにならないでください!」
「見捨て……って、そんな。鬼堂さんには、あなたみたいに立派な人がついてるじゃないですか。私なんか、何の役にも立てませんし、それどころか、逆に迷惑にしか……」
「いいえ」

毅然とした<正義>の声が、美咲の自己否定を斬って捨てた。

「お館様は、美咲様を必要となさっています。おそらく、ご本人すらもお気付きにならないほど切実に」
「嘘です!」

美咲は、少し上ずった声で叫んだ。

「鬼堂さんが、鬼堂さんがそんな風に思ってくれてるなら……」

美咲の目が、ベッドの上に向けられる。そこには、小さな鬼堂が高熱に喘いでいた。症状は、一向に良くならない。

「こんなひどい病気になる前に、どうして私に言ってくれなかったんですか? 『お腹が痛い』って、そう一言言ってくれるだけでいいのに! 今朝までは……今朝までは、あんなに甘えてくれたのに……」
「ええ、そして美咲様は、お館様の想いに、懸命に応えてくださいました。だからこそ……」
<正義>は、横たわる信吾に、慈しむような優しい目を向けて、
「だからこそ、お館様は美咲様に甘えこそすれ、ご心配をおかけしたくはなかったのです」
「そんな……」

喉の奥で震える美咲の声。<正義>は、わずかに涙をにじませて、小さくうなずいた。

「これまで生徒会役員の方々の前ではしゃいでおられたのも、お一人で仮眠室へと下がられたのも、おそらく、美咲様が病にお気付きになり、ご心配なさることを恐れて、わざと……。いったい、どれだけ無理な我慢を重ねられたことでしょう」
「本当、なんですか……?」

震えた声のまま、美咲は尋ねた。

「本当に、鬼堂さんは、私のために……こんな……」
「美咲様!」

急に高められた声に、美咲はハッと<正義>を見返した。

「美咲様のためでないのなら……そうでないのなら、どうしてお館様は、こんな小さな体で今まで耐えてきたというのですか! 美咲様に信じていただけないのでは、それでは、こんなに小さなお館様がかわいそうです……!」

<正義>の言葉は、したたかに美咲を打ち、その全身を縛った。何も言えない美咲の横を通り抜け、<正義>はICUのドアの前に立った。そして、

「お館様は、ひどく恐れていらっしゃいます。自分の感情をそのままぶつけてしまっては、美咲さまに嫌われてしまうのではないか、と。……本当はとても不器用で、弱いお方なんです……」

その一言を最後に、<正義>はICUを出ていった。
再び、狭いICUに静寂が戻る。 美咲は、先程の<正義>の言葉を反芻していた。

『お館様は、美咲様を必要となさっています……』
『美咲様のためでないのなら……』
『お館様は、ひどく恐れていらっしゃいます……』

美咲は、ためらいながらも、ゆっくりと信吾のベッドに近付いた。しばし無言のまま立ち尽くす。そして、

「……私、あの人の、<正義>さんの言ったこと、信じてもいいんですか……?」

ともすれば、かすれて消えてしまいそうな、しかし、心の奥から振り絞った声だった。そして、まるで罪を犯そうとするかのように恐る恐る、小さな鬼堂の手を握る。

「……私、本当に、あなたの傍にいてもいいんですか……?」

想いのすべてを賭けた問い。しかし、高熱にあえぎ、昏睡に陥っている信吾に、この問いが届いているとは思えない。
 これも、結局は単なる自己満足なのかな……。
そう思い、手を緩めかけた、その時だった。それを逃がすまいとするかのように、信吾の手が美咲の手を握り返したのだ。

「みさき…ねえちゃ……」
「!」

直後に続く、信吾の声。手の力はひどく弱く、小刻みに震えており、声は聞き違いと言われても否定できないほどにか細いものだった。
しかし、その小さな力が、小さな声が、どれだけ美咲を勇気づけたことだろう。
美咲はベッドの脇にひざまづいて、信吾の手を両手で包み込んだ。彼女の目には、いままで闇の奥に押しこめられていた安堵と希望の光がともっている。恐怖が、不安が消えたわけではない。しかし、美咲の目に迷いはなかった。彼女は気付いたのだ。「役に立てない」と言ってその場を退くことは、不安と恐怖との対決からの、卑怯な逃避でしかないのだということを。

美咲は、決意を固めたのだ。

(鬼堂さんに「嫌だ」と言われる時まで、私はこの人の力になりたい。大したことはできないけれど、少なくとも今、鬼堂さんの手を握っていてあげることはできる。この人を一人にはしないでおけるから)

そして、今まで不安と恐れによってしっかりとした形を取れずにいた感情が、今、確かな想いの結晶として美咲の心に具現した。

(私はこの人のことを、こんなにも好きなのだから)

美咲は両手に包んだ信吾の手を胸元に引き寄せ、強く、強く抱き締めた。

その頃、この地下生徒会本部を統括するスーパーコンピュータ「ノア」は困惑していた。
いや、正確に言えば、侵入者発見の警報を発令するか否か、その最終決定を下せない状況に追い込まれていたのだ。その原因は言うまでもなく、美咲と信吾しかいないはずのICUから姿を現した黒髪の美女の存在である。
黒髪の美女は問われるよりも早く、ノアのメインディスプレイに向かって深々と一礼した。

「突然お邪魔いたしまして、大変申し訳ございません。私、魔術師率いる二十二の魔宝が一つ、<正義>と申します」
『どのような御用件でしょうか?』

警報発令を中止したノアの質問に、<正義>は穏やかに答えた。

「私も、この事件の解決のため、生徒会役員の方々に協力させていただきたいのです。非才なる身ではありますが、多少であればお役に立てるかと。私は、主人である鬼堂信吾様を拉致し、子供の姿にした者たちの顔を見ていますから」

毅然とした態度、落ち着いた声。しかし、その心の内では、怒りが大きな渦を巻いていた。

(お館様。お館様は普段、私が裏生徒会絡み以外の事件に関わることを禁じていらっしゃいます。しかし私はもう、お館様を卑劣な手段で拉致し、怪しげな薬で子供に戻した犯人どもを放っておくことができません)

「ノア殿。紙と筆を用意していただけないでしょうか? 犯人どもの似顔絵が描けると思いますから」

(そして、今やお館様を死に瀕しさせ、美咲様にあれほど辛い想いをさせた奴らめを、斬って捨てずにはいられないのです!)
←prev 目次に戻る next→

© 1997 Member of Taisyado.