第7章:ALICE
〜すべては、ありし日のように〜
戦いは、終わろうとしていた。

「ぐあっ」

短い悲鳴を残して、『帽子屋』が倒れこむ。頭から落ちたシルクハットが有子の元へ転がっていき、彼女の足にぶつかって止まった。
対する『ジャバウォック』も無傷ではなかった。身体中から黒い血を流し、荒い息をついている。

 <残しておいた力の差だな、『帽子屋』……>

『ジャバウォック』の言葉には勝利の喜びも嘲りもない。むしろ、どこか悲しそうだとさえ有子は思った。

――あんなに怖く感じるのに、どうして……?

だが、有子の疑問は長続きしなかった。『ジャバウォック』が『帽子屋』に牙を剥いて迫ったのだ。

か、噛んじゃうの!?――その途端、有子は駆け出していた。

「だ、駄目ぇ!」

 <なぜ邪魔をする、『ありす』>

「もう……もう止めて!こんなことして、何になるっていうの?」

魔獣の瞳に映る自分の姿は、ひどくはかなげに見える。実際、『ジャバウォック』の力の前では有子など一撃で吹き飛ばされてしまうだろう。しかし、彼女は怯むことなく叫んでいた。

「私のせいなんでしょ?あなたたちを苦しめているのは、私なんでしょ!?それなのにどうして……あなたたちが戦わないといけないの!?」

 <それは違う。我らが戦うのは――>

「だったら、止めて! 私が『ありす』なら、言うことを聞いてください!」

涙が勝手に溢れだしてくる。止められない。悔しくて、悔しくてたまらない。力を持っているはずなのに、自分はとても無力だ。
もし、私が『ありす』なら。本当に『ありす』なら。

「誰も苦しめたくなんかないのに!」
 <『ありす』、違うのだ……>

『ジャバウォック』の声が、有子の耳元で囁かれた。それはどこか弱々しく、恐怖を撒き散らす魔獣のものとは思えない。

 <我も『帽子屋』も狂ってしまった……お前と離れてしまったことで、我らはすべてを見失ってしまったのだ――お前の愛情すらも>

俯いていた有子に、『ジャバウォック』が頬をすり寄せるように顔を近づける。

 <我はずっと求めていた。『ありす』、お前の愛情を……だが、我は恐怖を力にする者だ……受け入れられないことは分かっている。よく分かっているのだ>

だが、それでも求めてしまった。『ありす』の想いを。

 <『ありす』、お前が苦しむことはないのだ。過ちは我らが起こしたのだから……お前は、泣かないでくれ>

「『ジャバウォック』……」

有子の手が、鱗に包まれた魔獣の鼻面にそっと触れる。瞬間、恐怖が染み入るように彼女を襲うが、身体は震えなかった。

怖くない。

 <……暖かいな。我にはないものだ>

「ううん」

『ジャバウォック』の首筋を撫でながら、有子は首を横に振った。怪訝そうな彼に向けて笑顔を見せる。

「あなたも暖かいよ……私が暖かいなら、『ジャバウォック』だって」
 <そうか。我も、か>

魔獣がぎこちなく微笑んだ、その時――。

「死ね」

冷たい宣告は、ひどく短かった。そして、あっさりと訪れた。

どしゅっっ!!!

 <――!!>

びくん、と有子の手に震えが走る。『ジャバウォック』の身体から伝わってきた、生命が断ち切られる感触。

――どくん――

 <グ、ガ……ッ!>

『ジャバウォック』の口から、苦痛に満ちた呼気が吐き出された。その巨体がよろめくと、有子の目に映るものがあった。
魔獣の背に深々と突き刺さる、シルクハット。

「あ……あ……」

――ど、くん――

言葉もなく立ち尽くす有子を避け、『ジャバウォック』はその場に倒れこんだ。その目には、既に虚ろな光しかない。

「い、や……いや……」

幼い子供のように、何度も頭を振る。目の前の事実を信じることができない。あまりにあっけない生命の終わりに、心が凍りつく。

「……せっかく、せっかく仲良くなれたのに……こんなの……」
「――ヨカッタナ、『ジャバウォック』。『ありす』ハ、オマエヲキニイッタラシイゾ。モノズキナコトダナ……ククク」

ゆっくりと立ち上がる『帽子屋』が発する雰囲気は、もはや人のものではなくなっていた。明らかに異質で、異様だ。
しかし、そんなことは有子の眼に映らなかった。煮えたぎるような怒りと憎しみが、何も見えなくしていた。

「許せない……絶対に!」
「ユルセナケレバ、ドウスルトイウノダ? オマエガ、タタカウトイウノカ?」
「……! あなたは、戦うという形でしか全部が手に入らないとでも思ってるの? そんなの、間違ってる!」

怒りが言葉を呼び、言葉はさらなる憎しみを生んでいく。

「マチガッテイル、ダト!? ジブンジシンカラニゲタオマエガ、オレヲセメルトイウノカ! ニゲテ、ニゲテ……ワスレテイタクセニ!!」
「それは……!」

言葉を失った有子を見て、『帽子屋』が嘲笑う。

「ソウダ! オマエハ、オレタチヲワスレタ! ソンナコトヲシタカラ、コレダケノコトガオコッタノサ! オマエダ! 『ありす』ガ『ジャバウォック』ヲコロシタノサ!」

殺した――。
『ありす』が『ジャバウォック』を――。
私が殺した――。

ふらり、と身体が揺れた。その言葉は、何も関係のない者ならば、聞き流していたはずだ。直接、魔獣の生命を奪ったのは『帽子屋』なのだから。だが、有子にはその言葉が重く響いた。

彼女は『ありす』。物語の世界を創り出した、張本人なのだ。

「私だって……私だって……」

忘れたくなかった。

そう言おうとして、有子は自分の心が立ち止まってしまうのを感じた。自信が持てないのだ。本当に、彼らのことを忘れたくなかったのか。この能力から逃げようと思わなかったのか。
有子には、間違いなく答えられる自信はない。

「私は……」

言葉が、出ない。頭の中が真っ白だ。気持ちだけが空回りして、何も出てこない。涙さえも、燃え上がるような怒りに乾いてしまっている。

――私のせいなの?……そうかもしれない。お兄ちゃんも、『ジャバウォック』さんも……みんな、苦しんで……でも、でも……!!

「ドウシタ? ナニモイエナイノカ――イヤ、イエナクテ、トウゼンナンダ」

有子の細いおとがいに、『帽子屋』の手が伸びる。避ける間もなく、彼女の自由は奪われていた。

「サア……ココロヲヒラケ。オマエノツミモ、クルシミモ……スベテ、オレガセオッテヤル。オレヲタヨレ……オレヲウケイレロ。ソウスレバ、オマエハコドクデハナクナル」

込められた力は、強くはない。『帽子屋』も満身創痍なのだ。ぼろぼろの肉体を執念が――執念だけが支えている。
それなのに、抵抗することもできない。いくら有子でも、振り払うことはできたはずなのに。

――どうして……どうして?この人の気持ちは……。

触れている指先から流れこんでくる感情。能動的に力を使わなくても、鋭敏に感じ取れた。怒りと、狂おしいほどの悲しみ――ただ、それだけが伝わってくる。

「『帽子屋』さん……」

どう言えばいいのだろう?彼の想いを理解できても、その先までは分からない。そして彼の言葉に納得しつつも、何かが間違っていると思っている。

でも……。

まだ、有子の心から、迷いは消えない。

「サア……!」
「――女の子に無理強いさせるなんて、男としちゃ最低だな」

一陣の風と共に。
からかい混じりの少年の声が、意外なほど力強く響いた。
有子と『帽子屋』の視線が動く。そして、そこに佇む者を見た瞬間、少女の瞳には希望の光が、男の眼には驚愕の色が宿った。

天草龍之介。鬼堂信吾。そして、江島愛美。
どこか穏やかな風に運ばれ、生徒会メンバーが草原にゆっくりと降り立った。

「いいタイミングね……」
「くぅ〜、予想を上回る可愛い子じゃんか。よし、鬼堂。有子ちゃんの身の安全は俺に任せろ」
「任せられるか!」

……こ、こいつらって……とことんマイペース……。

けれど、有子は不思議と安堵していた。彼らの顔を見ているだけで、力が湧いてくる気がする。

どうしてだろう……?

「さて、と……物語もそろそろ佳境のようね」

扇子を打ち鳴らしながら、愛美は悠然と歩を進める。龍之介は嬉しそうに、信吾はどこか戸惑ったような表情で後に続く。
テレポートでよく起こる、「酔い」のせいである。
愛美の方は『チェシャ猫』との空間転移で慣れていたからだが、龍之介の場合……ほとんど有子への見栄である。女の子が関わっている時に限って、龍之介は超人的な能力を発揮するのだ。

ほとんど反則かもしれない。

「バ、バカナ……!」
「あら、随分と古典的な反応なのね。あなたの終わりも近いんじゃない?」

愛美がにこりともせず、言い放つ。

「それとも、私たちが終わりにしてあげるべきなのかしら?」
「……江島くん。まるで悪役の台詞だぞ、それは」

朦朧としているせいか、信吾の言葉も間が抜けている。

「先輩たち……どうやって、ここへ?」
「そりゃあ、愛の力に決まってるじゃ――いてっ」
「私たちに不可能なんてないわ」

扇子で龍之介を殴り倒し、愛美が前へ進み出た。サングラスによって隠されているはずの双眸が怒りに燃えているような気がして、有子は思わず身を一歩退いてしまう。今の愛美なら猛獣使いにもなれるだろう。

だが、『帽子屋』は何かに気づいたかのような笑みを浮かべ、彼女の迫力にも怯まなかった。

「ソウカ。『チェシャ猫』ノチカラヲカリタナ……ヤツナラ、キサマラゼンインヲココヘオクリコムコトモ、カノウナハズ」

そのまま、笑みが残忍なものへと変わる。

「シカシ……フカノウガナイトハ、ヨクイッタモノダ。『チェシャ猫』ヤ『女王』ヲ、ギセイニシタノダロウ? ククク……ショセン、キサマラモ――」
「その汚い口を今すぐ閉じることね」

暗い愉悦に浸る『帽子屋』を、愛美は睨みつけた。

「あなたには彼らのことを一言たりとも言わせはしない……彼らは『ありす』の、彼女のために命を懸けた。それを笑うなんて、誰にも許さないわ」

絶対に、と小さく付け加える。

その言葉に込められた悲しみの深さに有子は気づき、目を伏せる。私のせいで、また、悲しんでいる人がいるんだ……。

「でもね、永沢さん」
「あ……はい」

突然呼びかけられて、有子は困惑したように愛美を見つめた。

「これだけは覚えておいて。彼らはあなたのせいで消えたんじゃない。あなたを助けるために消えたわけでもない……自分自身のために、自分が本当に望むもののために、命を懸けたの。それを忘れては駄目――あなたは、誰かに生かされてるんじゃないわ。誰かと共に生きているのよ」
「私は……誰かと共に……生きてる……」
「そう。そして、これからだって生きていくの――あなた自身のために」

不思議だ。
有子だけでなく、龍之介や信吾さえもそう思った。
愛美の口調には厳しさと優しさが混在し、その言葉は叱咤とも説得ともつかない。有子を暖かく包み込むようでもあり、冷たく突き放すようでもある。

「……バカバカシイ」

気圧されかけた『帽子屋』が、やっとのことで口を開いた。

「ダレカトトモニイキル、ダト? ソンナコトハ、ムリダ。ダレカニタヨラズイキテイクナド、デキハシナイ。オマエタチトテ、『チェシャ猫』ヲギセイニシタデハナイカ」
「それは違うぞっ!」

叫んだのは、信吾。会話は自分の役目ではないと愛美に任せていたが、我慢の限界が来たのだ。ついでにいえば、意識もはっきりしたからだが。

「互いに助け合うことは、甘えて寄り掛かることとは断じて違う! 何者をも信じることができなかった貴様には分からんだろうがな!」
「タスケアウ? シンジル? ソンナモノガ、ナンノチカラニナルトイウノダ! ゲンニ、オサナイ『ありす』ハコドクダッタ! ヒトリダッタ!!」
「……あのさあ」

激情のままに叫ぶ『帽子屋』へ、わざとらしく呑気な声が飛んだ。
龍之介だ。彼は、面倒臭そうに頭を掻きながら言った。

「お前、何か幻想抱いてんじゃねーの? 俺たち、助け合ったり、信じ合うことが力になるなんて、言ってないぜ」
「ナ……」
「そういうのはな、『力になる』んじゃない。『力にする』ものなんだよ――目には見えない信頼を本物にするのは、結局、本人次第なんだから」

一瞬、場の空気がしんと静まる。

「何だよ、何で急に静かになるんだよ」

龍之介が途端に不服そうな顔つきになった。

「……天草、お前がそんなまっとうなことを口にするとは……くぅっ(感涙)」
「変ね、今日は4月1日だったかしら」
「こいつら……」

本気で能力を使ってやろうか、と思いかけた龍之介である。もっとも、彼の力が信吾はともかく、愛美に通用するかどうかは、かなり疑わしい。
それに、普段が普段だけに龍之介にも立場はなかったりする。

「ったく、こーなったら『帽子屋』こらしめてストレス解消してやる!」

乱暴な結論である。
だが、結論に至る動機が乱暴で単純な代物であったとしても、それ自体は決して間違っているものではない。その場にいる誰もが、戦いを予期し、覚悟していたのだから。

そして。

「勝負だ、『帽子屋』! 行けっ、鬼堂!」
「ええいっ、命令するな!」
「……ま、結局こうなるわけよね」

最後の戦いが、始まった!!
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