第7章:ALICE
〜すべては、ありし日のように〜
――お兄ちゃん……。
どこか遠くから、懐かしい声が聞こえる。
和泉達也は半ば消えかけていた意識を取り戻し、薄く目を開けた。
身体中が、ひどく痛む。
――『ジャバウォック』にやられたんだ……当然か。
むしろ、生きているのが不思議なくらいだ。
――助けて……お兄ちゃん。
ごめん。僕はもう、助けられない。昔みたいに、助けてあげられない。
……いや。
昔だって、守りきれたわけじゃない。何も分かってないまま彼女を助けようとして、大失敗。彼らと彼女の記憶を消した――偶然の賜物だけど――代償に、『帽子屋』に半ば支配されてしまった。
その直後、親の都合で引っ越しをしたのは幸いだった。そのまま、『帽子屋』たちと共生することも構わないと思っていたのに。
――あの、あのっ、永沢有子といいます。よろしくお願いしますっ。
まさか彼女が蒼明学園に入学してくるなんて。確かにそれだけの才能はあったから、考えておくべきだったのかもしれないけれど。
――先輩ぃ〜、これ、どうすればいいんですかぁ〜。
彼女は変わってなかった。おっちょこちょいなところも、慌てると言葉が混乱してしまうところも……誰にでも優しいところも。
でも、それがかえって苦しかった。あの頃のままの瞳で見つめられることが、たまらなく辛かった。この頃の僕は『帽子屋』の影響を受け、変わってしまっていたから。
彼女を見ていると、昔と違う僕を感じずにはいられない。
そのことがまた僕を変えていく。
――お兄ちゃん、助けて……。
駄目だ。僕はもう……助けられない。
……そうなのか?
達也の心の中で、もう1人の自分が叫ぶ。
駄目さ。たとえ助けようとしても、また失敗するに決まってる。
……そう。そうかもしれない。
挫けそうになる。諦めてしまいそうになる。このまま目を閉じてしまえば、楽なのだから。後は、生徒会役員たちに任せておけばいい……。
けれど。
――大丈夫さあ……。
「!」
達也は腕に力を込めた。痛みを堪えながら、起き上がろうとする。
違う。まだ決まってない。助けられるかどうかは分からないが、まだ何もしていないのだ。それなら。
――怖くない、怖くない……だよ。
それは、怯える有子を励ますための言葉だった。だが、今になって達也はようやく気がつく。そう言うことで、何より自分を励ましていたことに。そして、その時の有子の笑顔に救われていたことに。
――あの笑顔……天草くんには、渡したくないな。
「……まだ助けられる……助けて、みせる!」
ふらつきながら、達也は立ち上がった。
その時。
<――汝は力を求めるか?>
不意に聞こえた声に、達也は身構えた。今の状態では相手を殴る手の方が痛むだろうが、そんなことは表情にも出さない。
「誰だ?」
<我は『ありす』により生み出されし者>
「……また、生まれたのか……」
やはり記憶が戻ると同時に、有子の力は解放されかけている――達也は安堵しながら、同時に不安も覚えた。『ジャバウォック』に捕われた状態で能力を取り戻すことは、ひどく危険なことかもしれない。
まして、あの『帽子屋』がそこに絡めば……。
「お前は……『ありす』をどうするつもりだ?」
<我は『ありす』を守る者。助けを求める『ありす』の想いより、我は生まれた。故に我は『ありす』を守る>
「そうか……」
達也は小さく笑った。目的は同じということか。
――でも、違うんだ。『ありす』の……彼女の求めているものは、命令に従う存在じゃない……。自分を受け入れてくれる友達がほしいだけなんだ。
<汝は我を求めるか?>
声が再び尋ねてくる。その口調は落ち着いていたが、ひょっとしたら焦っているのかもしれない。
「君はなぜ自力で『ありす』を助けようとしない?」
<我には肉体がない>
達也の疑問に、声はすぐさま答えを返した。感情がこもっていないせいで意図が読み取れず、達也は顔をしかめた。実のところ、生徒会では交渉役として愛美と肩を並べていたのだ。違うのは、愛美が力押しであるのに対して、達也はテレパシーを生かした搦め手が得意だったということ。
彼の困惑を無視して、声は言葉を続ける。
<我の力は少ない。『ありす』を救うには、あまりにも足りないのだ。世界に姿を現すことすらできぬ……力を振るう器が必要だ>
「……つまり僕の身体を借りたいってわけだ。君らに好かれる質なのかな、僕は?」
<汝の質問は理解できぬが、そういうことだ>
「やれやれ……」
痛む腕を押さえながら、達也は肩をすくめた。これが因縁でなかったら、何だというのだろう。
「三文小説的ストーリー展開だね」
ぎくぎくっ。
よ、余計なお世話だっての。こいつ、元から性悪なんじゃないのか。
「まあ、いいや。そういう意味でなら、僕は確かに適任だから」
<我を受け入れるのだな?>
「違うよ」
どこか明るくなった口調で、達也は言った。既に迷いはない。
<違う?>
「協力するだけさ……有子を守るために」
<何が違うというのだ?我も同じ目的をもっている>
不思議そうな、というより、まるで理解できないものを見たような声だった。実際、そうなのだろう。存在し始めたばかりの彼には難しいことだ。達也だって、分かってはいないのだから。
そう。彼だってよく分からない。何が違うのか、どこが同じではないのか。
けれど、達也は信じていた。
「きっと分かるよ……きっとね」
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